あがの焼窯元 庚申窯(こうしんがま)

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6/25~7/1までの日記

2020.07.03

コウヅルユウタです。

この日記は庚申窯のオンラインショップ

「くろつる屋」のブログを

1週間分まとめたものです。

 

 

6/25 蚊とゲリラ戦の話

6/26 テイカカズラと藤原定家の話15

6/27 アジサイとアルミニウムの話

6/28 晴れ男と雨女の話

6/29 テイカカズラと藤原定家の話16

6/30 焼き物の材料と材料費の話

7/1 テイカカズラと藤原定家の話17

 

 

まだ藤原定家の話続いていますけど、今週のは和歌について、私が思っていることをまとめたものになりますね。ひいてはなんで人は何かを作るのかということを、まとめておこうと思いまして。

 

 

くろつる屋の方もよければ覗いてやってください。

こっち↓の方が確実に読みやすいですよ。

 

 

 

 

 

6/25 蚊とゲリラ戦の話

 

6月25日 雨

 

本日のBGM Todd Rundgren

 

 

最近は例年通り蚊の皆さんとバチバチにバトルを繰り広げておりまして、私が血を吸われて痒みをもたらされた回数と、私が彼らを圧死させた回数で比べた場合、今のところ向こうに軍配が上がっております。

 

 

かたや痒みで、もう片方は死ですから あまり公平な判定基準とは言えないような気がしますが、

 

長年繰り広げられてきた この終わりのない戦いに疲弊した私は、今季から化学兵器を導入しまして、虫除けスプレーと香取線香による二重の防御壁で戦いを有利に進めて、我が軍の被害はすこぶる減りました。

 

 

しかし彼らは昼間の攻防が不利と分かると、今度は夜間にゲリラ戦を仕掛けてきまして、こちらの寝込みを襲うようになりました。

 

 

我が軍の駐屯地は敵兵の侵入を許さないよう、基本的には各通路を締め切っておるのですが、空気の循環のために開放しているマドが2箇所あり、マドには最強の警備システム アミド によって、アリ1匹入り込む隙間のない完璧な警戒態勢を敷いております。

 

 

しかしゲリラたちは夜中になると どこからともなくやってきます。アミドの警備システムになにか欠陥があるのか、それとも彼らは空気中に一定確率で発生する、可能性が定まっていない生き物なのか。

 

 

今日などは窓も閉め切っているのに飛んでいるもんだから、観測する私がいることでこのゲリラたちも存在してしまうのでは、などと大変に困惑しつつ、

 

そう言えば この世で最もうっとうしいのは蚊の幽霊だろう という意見があって、もし夜中に蚊の幽霊が現れて、音だけするのに叩き潰すことが出来なかったら。。それはこの上ない恐怖ですね。

 

 

もしそんな蚊の幽霊を自由に操ることができたらお気軽な復讐代行業ができますね。「にくいあんちきしょうの寝室にゴーストモスキートをどうぞ。2時間1,500円〜」

 

 

しかし生身のゲリラたちも十分に脅威で、彼らの目的は次世代兵士の育成に必要な栄養素を 我が軍から盗み出すことなのですが、我が軍からすればその程度の被害など取るに足らないのに、皮膚の民たちが過剰に反応するものだから、仕方なく彼らを排除しなければならないのであります。

 

 

しかし彼らも 必要な分だけ さっさと血を取っていけば良いものを、何をそんなたらっとしとんねん というくらい、血を吸うのが遅いのです。

 

 

一発で吸い切って帰ってくれれば こちらの痒みも1箇所で済むのに、ヒットアンドアウェイで何度も襲来するから 一匹の蚊に何箇所も刺されてしまい、お互いに不幸な状況が生まれております。

 

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就寝前のC兵器は我が軍としても使用を控えたいので、夜間は実働部隊によるゲリラ戦が展開されます。

 

 

庚申窯に生息しているゲリラは、前線ということもあり鍛え抜かれた猛者どもで、おそらく我が軍や同盟国による長年の攻防によって、単調な飛び方の蚊は淘汰され、今残っているのは我々の意識の盲点をつくような飛び方のうまい個体ばかりで、ゲリラ戦を攻略するのは容易なことではありません。

 

 

ちなみに我が軍がメトロポリスに駐屯した際の市街戦では、驚くほど容易に制圧できる蚊ばかりだったので、あがのの蚊は非常に優秀な血統が育まれております。

 

 

そして夜間のゲリラ戦では、我が軍の間接照明への執心が裏目に出て、ああいうオレンジっぽい灯りの時のゲリラたちは本当に姿を見失ってしまいます。

 

 

それゆえに我が軍は夜間、大変な被害を被っていたのですが、最新兵器 アイホンのライトを導入したことにより、ゲリラたちのシルエットが壁に映し出されて 居場所をはっきりと補足することができるようになりました。

 

 

ちなみにシルエットの語源は、昔フランスが資金繰りに困ったときに肖像画なんて影絵で十分だと言ったシルエット大臣が語源ですが そんなことはどうでもよくて、

 

 

この最新兵器を操るには我が軍のレフトアームをフル稼働せねばならず、レフトとライトのコンビネーションによって我が軍の制圧能力は真価を発揮するのですが、ライトアームだけでの捕獲はなかなか至難の技で、本日も永遠に続く戦いの、とある1日が刻まれるのであります。西部戦線異常なし!

 

 

 

6/26 テイカカズラと藤原定家の話15

 

6月26日 晴れ

 

本日のBGM Sonny Rollins

 

前回 人は成長するにつれて ただの刺激ではだんだんと感動しなくなる、といったことを書きましたが、人間が日常生活を送る上で そうそう大した出来事は起こりませんで、

 

というか長い年月をかけてホモサピエンスは「人間社会」というシステムを作り上げて、なるべく異常な事態が起こらないように、常識とか法律とかのルールで自分たちの行動を抑制してきたのですけど、

 

ただ脳のほうはそれで満足してくれないみたいなんですよね。意思と言ってもいいかもしれませんけど、何かを強要させられることは 生物にとって とても不愉快なことだからです。

 

 

しかし人間には発達した大脳新皮質がありますので、「やりたくないことでも やったほうが結果的に自分にとってプラスになるから従う」という合理的な判断の積み重ねで人間社会は成り立っています。

 

のですが、その「合理的な判断」というのは、その度にストレスが溜まっていってしまいます。自分では意識していないような ものすごく小さなことでも。

 

 

人間社会で暮らす人は、社会のルールに対する反発がありつつ、それでもその社会に居続けなければならない、という葛藤があって、その矛盾した心のバランスを取るために感動が必要になります。

 

 

ここでの感動というのは「本能的な喜び」の疑似体験のようなものですね。ルールに縛られない世界で、意志と行動が矛盾していなかった頃の感情を一時的に再現、あるいは解放してあげる行為で、

 

自分たちの中にある 社会に反発する感情を飼い慣らすために 定期的にあげなきゃいけない おいしい餌みたいなものです。

 

しかし日常で感動するようなことはそうそう起こりません。それは人間社会というシステムが、全体の生産性を上げるために 個人の生活をなるべく繰り返しのものにして、一人一人が社会にとってのパーツとなるよう 役割分担されているからです。

 

 

そこで 感動を意図的に引き起こすための装置として芸術が作られます。

 

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ここで言う芸術というのは、いわゆるアートでも、もしくはエンターテインメントと呼ばれるものでも、物語全般でも、歌でも、お笑いでも、恋愛でも なんでもよくて、「日常を忘れさせてくれて、非日常の中に脳をトリップさせてくれるもの」が私にとっての芸術になります。

 

 

そうすると この定義では、芸術というのはそれぞれの人にとって全く別のものであり、全員にとって一致する芸術の形というものはない、ということになります。だからアート作品というのはちょっと苦手だったりしますね。押し付けがましい感じがして。まあ私もそれ系のことやってるんですけど。

 

 

ほいでトリップと言っちゃってるんですけど、この役割はドラッグも担ってきたわけですね。もちろんタバコや酒も含まれます。酒がないと人間社会がどうなるか、

 

それについては かつてのアメリカで、禁酒法がどえらいことを やらかしてくれたことからも分かるように、人間社会を維持するためには 日常からの解放が必要不可欠なのです。それをドラッグで担うか、それとも芸術で担うか、ということなんです。

 

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ストレスが溜まるほど 酒やタバコの量が増えるというのと同じで、ルールや常識による抑圧が強い人ほど、より大きな感動を求めるようになります。自主的に自分をルールで縛る人間ほどロマンチストだったりするわけですね。

 

 

そこで平安時代の貴族社会に一旦戻るんですけど、当時の貴族社会というのは現代からは考えられないくらい社会の枠組みが強固で、その中でのルールにガチガチに縛られていたからこそ、彼らには芸術が必要であったのです。

 

 

続きます!

 

 

 

 

6/27 アジサイとアルミニウムの話

 

6月27日 くもりときどき雨

 

本日のBGM The Golden Gate Quartet

 

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今日は梅雨らしいぐずぐずした天気で、晴れ続きでしおれてた紫陽花にはちょうど良い天気でしたけど、紫陽花でアジサイと読ませるって結構無理があるなと思いまして、

 

じゃあ平安時代ではどういうふうに書いていたのかというと、当時の辞典には「阿豆佐為」とされていて、これは読むにあたっては紫陽花より納得度は高いけど すごくだせえですよね。

 

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昔はいろいろな漢字が当てられていたみたいですけど紫陽花という書き方が広まったのは、

 

「唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者 源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれている。」

 

と ウィキペディアから転載してみましたが、

 

確かに紫陽花とはいうもののアジサイの花って紫だけではないですよね。

 

ていうか源順って阿豆佐為って書かれてた辞典を編纂した人なんですけど、その人が「紫陽花」を広めたってどういうこと?「やっぱ阿豆佐為って書くのだせえわ」ってなっちゃったの?

 

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さてアジサイの色についてさらにウィキペディア情報から転用すると

 

花の色は、土が酸性なら青になって、アルカリ性だと赤になるそうです。同じ株なのに花の色が違うのはこれのせいらしいです。なるほどそういうことでしたのね。

 

そしてそれはなぜかというと

 

「土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し青色を呈する」

 

ということだそうで、

 

ここから陶芸っぽい話になるんですけど、

 

庚申窯には大量にアジサイが植えられていまして、というのも祖父が趣味でどんどこ植えたせいなんですけど、放っておくと通路が埋まってしまうので花の時期が終わったアジサイは短く切らねばなりません。

 

すると大量のアジサイの死骸が手に入るのですが、このアジサイを乾かして 燃やしてできた灰は釉薬になりまして、こんな感じの色になります↓

 

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この青っぽい色が毎回綺麗に出てくれたらいいんですけど、このアジサイの釉薬は結構くせもので、青が綺麗に出てくれる時もあれば、なんかぼんやりした色にしかならない時もあってなかなか思い通りにならんのうと思っていたのですが、

 

今見たウィキペディアによれば 土壌が酸性だアルカリ性だアルミニウムだイオンだって言っておるから、それって釉薬にした時に影響しそうな感じもりもりにしますやん。結局釉薬の色を決めるのは鉱物ですから、アルミニウムとかも少なからず影響しそうなんです。アルミニウムと言ってもすごい少量でしょうけど。

 

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てことは青い花が咲いてるアジサイだけ選り分けて釉薬にしたら、より発色が濃いものになるんじゃないかと思いまして、庚申窯のアジサイも3分の1くらいは青い花が咲いていますから、これは試してみる価値がありそうです。なので多分試してみると思います。

 

そしてアジサイの写真が余ったのでまとめて貼り付けておきますね↓

 

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ちなみにアジサイについての和歌を藤原定家も詠んでいるそうです。

 

あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る

 

正直後半どういう意味なのかわかりませんが、あぢさゐって書くのもなんかいいですね。

 

 

 

 

 

6/28 晴れ男と雨女の話

 

6月28日 くもりときどき晴れ

 

本日のBGM Yeah Yeah Yeahs

 

今日友人と話をしてる中で、「晴れ男とか雨女とかの話題で ご飯を何杯もおかわりしようとする輩に腹が立つ」 という見解が飛び出してきまして、

 

ここぞという時にはあいつを呼ぶと晴れるんだ、私が参加しちゃうと絶対に雨が降っちゃうの、この娘と出かけて天気が悪かったことは本当にないわ、お前が来ると雨降らない?

 

このような愚にもつかない会話を平然とする連中に我々は怒り心頭でございまして、何にそんな腹を立てているのかというと、このくだらない会話を10分以上続けやがる神経と、そんな連中が意外に多いという事実に発狂寸前なのです。

 

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まさかとは思いますが 本気で ひとりの人間の空間座標と、その地域一帯の天候が連動している、などと言うことを信じているわけではないですよね? もしこれをガチで信じているとしたら 我々の手には負えないくらい病巣が奥深くまで達しているのですが、

 

「本気で信じてはいない、でも会話のバリエーションの一つとして、雨男晴れ女のテンプレートを挟み込む」 このくらいのことでしたら我々は何も文句ございません。大変結構なもんです。

 

 

「はい晴れ男の話題でました、はい相手が受けてエピソードを出しました、はいもう一回戻ってきてこちらのエピソードも出しました、あっはっは、はい終了。」というようなワンセットでしたら なんの不満もありません。むしろ社交辞令をちゃんとこなせる素敵な方だと思うのですが、

 

これを1ラリーでは満足せず、偶然の範疇で片付けられるエピソードを得意顔でいくつも並べ立てる彼らを見ていると、私は世界の輪郭が歪むような錯覚に陥りまして、

 

喉が張り付いて声が出なくなり、手足は付け根から爪先まで痺れて、口の中に金属のような味がして、髪ははらはらと抜け落ちて、呼吸がうまく出来なくなり、肝臓の数値がとんでもないことになってしまいます。

 

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何が許せないってエピソードが弱いことが許せないんです。「あいつがいたら あの時も晴れたし あの時も晴れた。だからあいつは晴れ男。」そんなもんにどうやってリアクションせえと言うのですか。

 

 

つまり晴れ男とか雨女のエピソードなんて完全にひとパターンしかないんです。登場人物とシチュエーションが変わるだけで、同じ話を繰り返しているだけなのです。

 

 

「ていうか ひとりの人間の力でどうやって天候が変わるんですか、メカニズムを教えてくださいよ」などと差し込んでみたら、そんな野暮なことは言うな みたいな雰囲気になりますよね。

 

 

こういうことを言うのは「このラリーもう賞味期限切れてますよ、そろそろ別の話題に移りましょうよ」というメッセージであるんですけど、それより噛んでも味のしない話を延々と続ける方が野暮じゃあねいのかい。どうなってんだい。

 

 

むしろこの質問によって、そのメカニズムを無理くりでもいいから考えて、それをまた一つの話題にしてやろうという発想に至らないこともまた腹立たしいのです。

 

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大体この人間中心の考え方を良しとする考え方にまたゾワゾワしまして、天気という、すべての生き物に関わる問題を、なにを人間だけの出来事のように話してやがんだ と思いますの。

 

 

そう言えばノアの方舟伝説だって、堕落した人間を罰するために神様が洪水起こすけど、良い人間だったノアの一族と、全ての動物のつがいだけを船に乗せて助ける、って話だったと思いますが、堕落したのは人間で、動物は何も悪くないですよね。なにを動物まで巻き込んでやがんでい。神様どうなってんだい。

 

 

それと晴れ男雨女の一連のやり取りって言うのは コミュニケーションが目的化している話題なわけですよね。

 

会話の間を埋めることが目的の、内容はどうでもいい予定調和な代物で、だから初対面の男女数人の集いとかで やたらとこのテンプレートが出てくるわけですよね。

 

とにかく喉から音が出て鼓膜が震えればいいのであって、そのグループの親近感を高めるための「間つなぎ」みたいなものだと思います。

 

この毒にも薬にもならない感じというか、フニャフニャして捨てどきがわからない最近の味長持ちガムみたいな感じが苦手なんです。一体なんなんだこの時間は と思っちゃうんです。

 

 

ということは、空気の読めないやつがこの手の話題を嫌うということでしょうか。自分で書いていて どうも私や友人が少数派で、むしろ迷惑をかけている側なのかもしれないと思いましたね。この話題に平然と付き合えるのが大人なのだと言われれば確かにそうかもしれません。

 

 

じゃあ大人なんだったら ちゃんと責任もって さらなる妄想にも付き合っていただいて、

 

どうやったら いち個人がそこにいるだけで天候に影響を与えるのか というメカニズムを真剣に論じ合ったり、

 

もしそんな人間が実在したらその人は一体どのような人生を送ることになるのか、雨という概念を持たない男や 青空という概念を持たない女はどんな風な思考回路になるのか、とかそんな空想を広げることも許していただきたいです。

 

 

そして私に「晴れ男雨女」のテンプレートを持ちかけた場合には、「晴れ男とか雨女とか言ってる奴らどうかしてるぞ」というテンプレートが返ってきますのでご注意ください。

 

 

 

 

6/29 テイカカズラと藤原定家の話16

 

6月29日 くもりときどき雨

 

本日のBGM The Friday Club

 

前回 日常やルールから一時的に解放されるために芸術(物語やエンターテインメントや音楽やスポーツやお笑いなどを含む広い意味でのもの)が必要だといったことを書きましたが、

 

このことを確認したい方がいましたら、3日間ほどテレビや本やスマートフォンなどを見ないようにしていただけると、かなり実感がわくかもしれません。人間にとって食事と同じくらいそれらは欠かせないものだと思います。

 

 

そして人間の脳は日常だけに耐えることができないので、そのうち自分自身で想像して物語を作るようになります。つまり退屈な時間が創造の土壌になっているんでしょうね。

 

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さて 平安時代の貴族に戻りますと、彼らの暮らしのスピードは現代の感覚とは全く違っていて、喋るテンポも遅かったと言われているくらいですから、大変にゆとりのある優雅な生活、つまり想像を働かせる機会は存分にあったわけですね。

 

 

想像力というのは身体能力と同じで、生まれ持った性能差が大きいのですが、鍛えられることでより発達していきます。想像力を鍛える環境というのは退屈や不快感になります。

 

 

それと想像力を鍛えるには材料も必要でして、それが知識と経験です。知識や経験が多岐に渡っているほど、想像できる世界はどんどん広がっていきます。

 

 

どのような形態の作品でも、受け取り手が作品を記憶することでリアクションが起こります。感情が動くためには瞬間的な衝撃だけではなくて、その出来事を記憶して、それまでの人生経験や知識と比較して、これは他に比べてここがすごいとか、これはこの点において新しいとかの振り返りによって、感動が起きています。

 

 

つまり最初の瞬間というのは衝撃や驚きでしかないんですね。振り返って思いを巡らせることで初めて感動が起こります。ただ このリアクションは無意識下で一瞬の間に行われるんですけど。

 

 

それ故に いろいろな知識が増えてしまえば、新鮮さによる感動は起こりにくくなるのですが、逆に想像できる世界は広がっていきます。その想像力に働きかけた芸術形態が和歌なんですね。

 

 

私が芸術と物語を ほとんど同じものだと思うのは、何かに感動するにはその何かの前後の文脈が欠かせないからです。人間は絶対的な判断基準を持っている生き物ではなくて、相対的な価値基準で物事を判断しています。

 

 

例えば毎日 白ご飯を食べている人にとっての白ご飯一杯の価値と、戦時中の白ご飯一杯の価値、ひいては感動は異なりますよね。人間はその人が生きた中で出会った物事の、平均ラインよりも上だとか下だとかって比較することで 物事を判断しています。生まれたての人間には価値の基準となるものがほとんどないので、育った環境によってその人の価値観が決定されます。

 

 

となると何かに深い感動を覚える時というのは、それ単発ではありえないわけですね。感動に至るにはそれまでの出来事と比較して、いろいろな要素が組み合わされることで感動がもたらされます。

 

 

例えばその2で、野球のことを全く知らない人にリーグ戦の優勝がかかった試合を見せても、新鮮には思うかもしれませんが、ファンの人と感動を共有することはできないですよね。

 

 

なぜこの試合展開に感動するのかを説明しようとしたら、

 

この試合はとても大事、それというのも このチームは何年前に優勝したけどその後どうだったとか、エースピッチャーは今年どんな戦績でどこを怪我しててそれでも復帰してとか、7番バッターは今年からやっと1軍入りして頭角を表してきてて今が大事な時期とか、ここで選手交代があるのは実はこういう経緯があってとか、

 

当人としては一瞬で感動できることであっても、その感動を他の人と共有するためには、実は膨大な量の知識や経験が必要であることに気づきます。

 

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つまり野球それ自体はただのゲームなのですが、同じ試合を見てても20年来のファンと、今日はじめて野球を知った人とでは全く別のものが頭の中に描き出されています。これはスポーツという事象を借りて、自分の中で物語が創作されているからです。

 

自分の中に物語が生まれて、それを是非とも他の人に伝えなくてはならない、と思った時に芸術が生まれます。だからほとんどの芸術作品は自分の中の物語を伝える行為だと私は思っています。

 

 

まだ続きます!

 

 

 

 

6/30 焼き物の材料と材料費の話

 

6月30日 くもりときどき晴れ

 

本日のBGM George Benson

 

値上げをしやがるというので、「今なら値上げ前の価格ですよ〜」という購買心理にあてられて長石をまとめ買いしました。

 

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長石というのは釉薬の原料で、焼いたら透明なガラスになる、大体どの釉薬にも入っているというもので、例えるならどの食品にも意外と入っている小麦粉みたいなやつです。そのほかで今回買ったのは酸化銅と合成土灰で、

 

庚申窯では粘土と、アジサイとか植物の灰の釉薬などは自分たちでつくりますが、こういうサイエンスっぽいものは材料屋さんから買って釉薬を作っています。でもこれらを自分で作る人もいて、

 

知り合いの陶芸家の人は長石を何トンも自宅に持っていて、それをでっかいミール(回転するドラムみたいなやつ。中に磁器製のボールが入っていて、まるでワニの胃石のように素材をすり潰すことができます)で24時間くらい回せば長石が綺麗に砕けるそうで、

 

あとは植物の灰を、長石6に対して灰4で混ぜて釉薬を作るそうです。はかる際にも重さではなくて、升ではかるそうです。昔ながらのやり方ですが、私もそんな感じでやりたいですね。

 

 

私がそのオールドスクールなスタイルをやれない理由は、長石の原石を持っていないってことと、庚申窯で人気な色は、天然の灰よりも合成土灰を使った方が綺麗に明るく色が出るということにあります。

 

 

やはり天然物の釉薬はオーガニックらしい落ち着いた雰囲気の、やや複雑な色になります。嫌な言い方をすればパッとしない地味な感じ。でも陶芸に詳しい人にはたまらないものがあると思います。リテラシーを要求される作品になりますかね。それと天然物なので狙い通りのものが出来にくいということもあります。

 

 

ところで材料屋さんの話ではコロナウイルスのおかげで 4月から陶芸の素材の動きも止まっているそうで、それというのも全国の陶器販売系のイベントが中止になってしまったため、窯元の方でもなかなか先行きが読めず、不用意に原料を仕入れられないというのが一つ、

 

もう一つの理由としては、陶芸教室などが中止になって、それ関係の仕入れも止まってるため、ということだそうです。

 

 

私は自宅でできる趣味として、個人での焼き物作りはむしろ盛んになっていそうな気がしていましたが現実はそうではないようで、やはり個人で窯を持っている人が少ないためでしょうか。まああんなもん家にあったら確実に配偶者の不興を買いますな。

 

 

材料屋さんから買う原料の値段は本当に市場原理に忠実でして、小刻みに変動します。正確に言うと小刻みに値上げするんですけど。

 

 

値上げの理由も、豊富にあった原料が底をついたり、輸入品だと現地でのコストが上がったり運搬費用が上がったりといった余波による必然的な値上げでして、基本的にこの先 材料価格は下がることはなく、現時点が一番安いから買い貯めた方がいいのですが、

 

庚申窯では長石5袋分が限界でしたね。個人経営だから5袋で結構持ちますからな。あと経済学的には現時点でのお金の価値は、未来でのお金の価値に比べて相対的に高くなるので、未来で買った方がいいのです。まあ値上げ幅の方がはるかに大きいんですけど、

 

素材にこだわる人は その色が1番!と思ったら同じものをトン単位で買い揃えたりします。同じ長石でも、何年の何月に取れたものを全部くれ!みたいに。採掘時期で品質が微妙に変わりますからね。

 

 

私としては出来るだけその辺は適当に行きたいと思っておりまして、素材に振り回されながら作りたいのですが それは大変不安定なやり方でもあります。「前の色の方が良かったなあ」なんてことはザラにありますし、どちらが儲かるのかと言われればコントロールをしっかりしてる方ですね。

 

 

まあでも自分に不向きなことを無理してやるのはストレスが溜まって、そのストレスを解消するためには 時間を使うか お金を使うかしなければならないので、それはそれで隠れたコストがあると思います。

 

 

でもどっちの方が職人のこだわりっぽく映えるかと言われれば、やっぱり素材にこだわって正確に作ってる方ですよね。そのタイプの人と話してる時は お小言をくらってるような状態になるのですが、正論は時として暴力と等しいものになりますので、暴力には屈しないぞ ということで意思を強く持っていきたいと思っております。ノーモア正論。

 

 

 

 

 

7/1 テイカカズラと藤原定家の話17

 

7月1日 くもりときどき晴れ

 

本日のBGM Letting Up Despite Great Faults

 

前回 創作活動というのは自分の中の物語を伝える行為だということを書きましたが、感動を相手に伝えるためには、相手の記憶の中に 感動に至るための土台を築かなければいけません。

 

 

映画の場合だと、2時間通して物語が組み立てられた上でクライマックスを見るから感動があるのであって、クライマックスだけ見ても感動はしないですよね。

 

 

映画は 映像と音楽と脚本で、制作者の意図したものをかなり正確に、多くの人に伝えることができて、さまざまな要素が盛り込まれていることから総合芸術とも言われておりますが、一方 和歌は それとは真逆の方向に進化したものです。

 

 

和歌というのは文字で読むものではなく、聞いて初めて効果を発揮するものでして、あのやたらと語尾を伸ばす歌を聞くのは はっきり言って退屈です。しかしこの退屈が重要でして、退屈だからこそ想像力が動き出し、そこに投げ込まれた言葉から情景が脳内に浮かび上がります。

 

 

例えば「滝」と聞いた時、滝をたくさん見たことのある人の方が、より多彩な滝を思い浮かべることができます。

 

頭の中は映画の画面とは違ってワンスクリーンではなく、さまざまな滝が同時に出てきてもOKで、それらが組み合わされた結果、現実に見てきた滝のどれとも違う、自分だけにカスタマイズされた「理想的な」滝の情景が頭の中のスクリーンに映し出されます。

 

 

それと同時に 滝にまつわる思い出が浮かんできたり、滝に関する故事や周辺知識も重なって、想像力が強い人ほど 一つの言葉からさまざまな情景が浮かんできます。

 

 

そこにまた別の言葉が続くと、すでに浮かんだ情景に新たな景色がオーバーラップして、現実の表現ではありえない光景が、それは奥行きがあって、多層的で、細部にどこまでも近づくことができて、時間の順序も混在している4次元的な立体が、聞き手の脳内に描き出されます。

 

 

歌い終わるまでの短い時間、頭の中に描かれた情景は現実のどこにもないもので、実際の技術レベルに縛られず、空想の中どこまでも自由に広がります。

 

空想での創造物だから、同じ歌でも聞くたびに違う情景が浮かび上がり、その時の自分にとって「理想的な」景色や物語が頭の中に浮かび上がります。

 

 

これと同じことをやっているのが落語でして、落語好きの人が同じ話を何度も聞けるのも、むしろ回数を重ねるほどに、その話の理解度が増して 想像力が鍛えられ、より鮮明に情景を描き出すことができるからです。

 

 

だから退屈が初期条件になるのですが、もしこの面白さにハマったなら より積極的にイメージを膨らまそうとするはずで、上手な聞き手ほど、のんびりした見た目とは裏腹に脳が高速回転していると思います。

 

 

和歌はたった31文字だからこそ、余計な詳細が省かれ、最低限の想像の種だけを巧みに配置することで、聞き手はその種から自分専用の情景や物語を描き出すことができます。

 

 

そんな和歌を 後ろ半分余計だっつって削ぎ落として、よりシンプルに進化したのが俳句になります。このあたりから日本文化の精神性がうかがえますね。

 

 

しかし和歌は対象者をものすごく選びます。まず言葉を知らないとダメですし、言葉から連想される幅広い知識も必要で、その連想されたものを自分自身の記憶や感情と結びつけるための人生経験も必要で、歌から積極的にイメージを描き出そうとする態度もなくてはなりませんし、退屈さも欠かせません。

 

 

その条件を満たしていたのが平安貴族たちで、和歌という芸術形態は、言っちゃえば想像力エリートだけが面白がれる遊びなんですね。

 

もう一つ大事なのが価値観の共有でして、貴族たちはすごく強いルールで縛られていましたから、価値観の共有もその分強力で、そうなると歌から連想されるイメージの精度も高くなります。

 

 

お互いの性格や立場や最近の事件もそれぞれわかっていて、コミュニティが情報を共有してる状態ですから、その中では言葉の裏に「あ あれのことやな」というような当事者だけが知っている楽屋オチみたいなものも織り込まれます。それは同じ時代に居合わせた者同士でしか楽しめない隠れた秘密なのです。

 

 

だから中学生の私が和歌に全く興味を持てなかったのは当然のことで、圧倒的に知識も経験も不足していましたから 言葉以上の世界を描くことができませんでしたし、積極的に想像する態度も欠けていました。それに面白いものが他にいっぱいありましたからね。しょうがない!

 

 

まとめると和歌というのは、歌を聞いている間、聞き手の想像力によって作り出したオーダーメイドの世界にトリップできる芸術なのです。

 

もうちょい続きます!

 

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高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目

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