あがの焼窯元 庚申窯(こうしんがま)

あがの焼とは

上野焼を詳しく知って頂く為の紹介ページです。

上野焼誕生の背景

上野焼の歴史をさかのぼるとその起源は1592年(文禄元年)から1598年(慶長三年)まで行われた豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に至ります。

当時日本国内を統一した秀吉が次に中国大陸の明国征服を目指し、その足がかりとして朝鮮半島に侵攻したのがこの戦争の始まりです。

この戦争中に各国の諸大名は多くの朝鮮人を自国へと連れ帰りました。この中に相当数の陶工もいたのです。

当時の日本では武人の間で侘び茶(いわゆる千利休系の茶道)が流行っており、西国大名たちは連れ帰った朝鮮人陶工たちに盛んに"やきもの"を作らせました。

目的としては当然藩主が自分で楽しむための茶道具の調達でしたが一方で 藩の殖産事業として藩の庇護のもと国産陶器として窯業を奨励したのです。

主立った所を上げると長州の毛利氏(山口県の萩焼)、筑前の黒田氏(福岡県の高取焼)、唐津の寺沢氏(佐賀県の唐津焼)、薩摩の島津氏(鹿児島県の薩摩焼)、そしての細川氏(福岡県の上野焼)が挙げられます。

いずれの産地も文禄・慶長の役の際 日本に帰化した朝鮮人陶工の活躍により、日本陶磁器史における重要な発展を遂げました。

これ以前に九州にはやきものの産地がありませんでした(その原因として樹木が多い国土であることから木器や漆器が発達していたためと思われます)が、この時期を境に西日本の窯業は多いに発展します。

こうした歴史のもと上野焼は誕生に至ります。

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上野焼の始まり

上野焼image1600年(慶長五年)、秀吉による朝鮮出兵終結より2年後、豊臣派の石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍の対立、すなわち関ヶ原の戦いが起こり、結果は東軍の勝利に終わります。
  勝利した徳川家康が行った転封(てんぽう:大名を別の領地に移すこと)政策によって各大名は旧来の領地を失います。ありていに言えば味方についた大名の領地を増やして、敵だった大名からは取り上げました。
  このとき徳川派についていた細川忠興(ほそかわ ただおき)は丹後の国宮津(京都県北部、11万石)から豊前の国(福岡県小倉39万石)へ移ります。
  藩主となった細川 忠興(ほそかわ ただおき)(別名 細川山斎:茶道の山斎流の祖)は朝鮮人陶工の尊楷(そんかい、和名:上野喜蔵 高国)一行を招いてやきものを作らせました。この尊楷が後の上野焼の祖になります。
  尊楷が日本にやって来た経緯として毛利 勝信(もうり かつのぶ、細川 忠興以前に小倉藩主だった人)が連れ帰ったとする説、または加藤 清正(かとう きよまさ)が連れ帰ったとする説があります(加藤清正は他にセロリも日本に持ち帰りました)。
  尊楷が細川 忠興の庇護のもと作陶を開始したのは関ヶ原の合戦の混沌から世情が安定し、が施工が完了した小倉城に入城した1602年(慶長七年)頃と考えられています。

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古窯から見る上野焼の変遷

1 釜の口窯 田川郡福智町上野堀田 全長41m

遺跡画像釜の口窯は上野焼の古窯のみならず、他産地の窯と比較しても国内最大級の大きさを誇っていた登り窯です。焼成室(しょうせいしつ、やきものをいれる部分)毎の大きさが不均一なことから継ぎ足しを繰り返し、このサイズになったと考えられます。
  細川 忠興の小倉城入城とともに開窯し(1602年、慶長七年)、その子細川 忠利の肥後移封(ひごいほう、熊本城に移ったこと)を機に閉窯しました(1632年、寛永九年)。
これには尊楷(上野喜蔵高国)とその長男 忠兵衛(ちゅうべえ)、次男 藤四郎(とうしろう)が細川忠興・忠利父子が熊本へ移る際これに従って共に熊本へ移り、残された三男 孫左衛門(まござえもん、十時氏)と長女の婿九左衛門(きゅうざえもん、渡氏)が場所的に不便だった釜の口窯を閉鎖したものと考えられます。そして尊楷は熊本の八代市でも優れた焼き物八代焼を作り(高田焼)の祖となります。
  また細川父子による政治は民衆に支持され、肥後移封に対する訴状が民衆から日に200 ~300も出されたと言われます。そうしたわけで肥後への移封の際ついてゆこうとする人達が数多くいました。そこで細川忠利は制止の三か条というおふれを書きを記し、これを止めます。このおふれを出した細川 忠利の真意を受けて、尊楷は一族全員ではなく長男と次男だけを同行させ三男の十時氏と長女の婿渡氏を上野の地へ残していったと言われます。
  上野焼の基礎をつくったこの窯の作風は几帳面で遊びの少ないものであり、中国風な嗜好が感じられます。操業30年の間注文主が細川 忠興から忠利へと変わっても作調が一貫していることからこれは尊楷自身の陶技であるとされます。
  この窯跡からは今日の上野焼の代表とされる"緑青(ろくしょう)流し"は見受けられず、窯印はもちろん巴紋も発見されないことから、もしこの釜の口窯時代の陶器が発見されたとしても古上野とは思われず、古唐津として判断されるものと思われます。そうしたわけか細川時代、小笠原初期の上野焼は現品が非常に貴重なものとなっております。
  なぜ尊楷は小倉から離れた田川郡上野に窯を築いたのでしょうか。当時の記録、資料が乏しいため明確にはわかりませんが、尊楷は異国からやってきた陶人であり、土を求めて山をさまよう場合その土地の寺院を頼ったであろうと考えられます。釜の口窯から下った所にはかつて足利尊氏も身を隠したことのあるという興国寺(こうこくじ)が現在もあります。尊楷一行はこの興国寺に身を寄せ、地元の人
間に案内を頼み、釜の口窯の場所にたどり着いたとも考えられます。
  どうしてこのような辺鄙な場所に窯を築いたかというのも、当時窯の秘密は非常に重要であったこと(技法など)、または異国人で あった彼らが人目を避けたことなどが考えられます。

2 岩屋高麗窯(いわやこうらいがま) 田川郡福智町上弁城岩屋

岩屋高麗釜の操業は釜の口窯より遅れた時期になるとされています。
上野焼は小倉藩の庇護による国産陶器であったため細川39万石の需要を満たすには釜の口窯だけでは不十分であり、関ヶ原の混乱から
回復し、領内世情も安定した1607年(慶長十二年)頃に築窯されたと考えられています。

そして細川忠利の肥後移封に伴い窯の煙も途絶えます(1632年)。

岩屋窯の作風は釜の口窯の均整美に対し自由奔放な手仕事が見えこのことからも釜の口窯に先行した窯ではなく、
民間用の製品が作られたと考えられています。

3 皿山本窯 田川郡福智町皿山

土画像 皿山本窯はその開始時期が釜の口窯より遅れて1625年頃(寛永二年)と考えられています。これには隣に位置していた高取焼系の内ヶ磯窯(うちがそがま)が閉窯したことで一部の陶工が釜の口窯と岩屋窯に流れ、両窯だけでは陶工を抱えきれず、また釜の口窯の操業もうまくいっていたので皿山本窯の築窯になったとされます。
  そして1632年(寛永九年)に細川 忠利が熊本に移り、小倉藩には明石藩(兵庫県)から小笠原 忠真(おがさわら ただざね)が入封します。そして上野焼は小笠原候10代にわたる庇護のもと発展を続け、1871年(明治四年)の廃藩置県をもって約246年に及ぶ藩窯としての歴史を終えます。
  明治以降、小笠原氏が東京へ移住した後も1875年(明治八年)頃まで十時家、渡家、吉田家は共同製作を続けますが、各々の独立を考えざるを得なくなります。
  十時 器八郎(ととき きはちろう)は1884年(明治十七年)頃まで独力で皿山にて作陶を続けますが、寄る年波と後継者不在から廃窯に至ります。
  渡 濃四郎(わたり のうしろう)は1876年から皆川 古一郎(みながわ こいちろう)の援助のもと作陶を続けますが1886年(明治十九年)頃廃窯します。
  吉田 喜三郎は息子 藤右衛門とともに1873年(明治六年)小倉市郊外に移り、矢野氏の援助のもと高保焼を始めますが1897年(明治三十年)ころ廃窯します。
  皿山窯においては十時 喜八郎が引退した後休止状態にあった窯で 商売としてはうまくいきませんでしたが、上野焼きを存続させようとして作陶を試みる者が幾人かいました。
  作風としては初期のものは釜の口窯と類似したものが多く見られますが小笠原時代に入ると茶道師範として古市家が仕えるようになり、陶工も代替わりし、諸釉薬を多用した多種多様な製品が作られました。

4 菜園場窯 小倉北区菜園場一・二丁目 全長16.6m

菜園場窯は長らく上野焼第一の窯と考えられてきました。小倉城よりほど近くにあることに加え、1982年まで発見されなかったので文献に登場する言葉より細川忠興の茶道具を制作するための趣味の窯であり、尊階はそこからよりよい土、木材(薪の材料)、水を求めて田川郡福智町上野に移ったのではないかと考えられてきたのです。しかし1982年窯跡が発見され、出土品の陶器を見るに 使用された技術や装飾性が釜の口窯に先行するものではないとの判断からこの窯は釜の口窯より後に、緊急な注文用、もしくは陶芸見学用に作られたものであるとの説が有力になっています。操業期間は出土遺物の量や焼台の跡などから5~8年くらいと考えられています。また文献などに小倉焼とでてくるものはここで焼かれたものであるとされます。

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明治以降の上野焼

前述の通り1884年(明治十七年)に十時 器八郎が作陶から手を引き一度は途絶えたかに見えた上野焼ですが、伝統があること、原料も豊富にあったことなどから地元の有志により再興がはかられ、1899年(明治三十二年)地元の農家であった高鶴 萬吉、高鶴 兵太郎、久原 清太、立花、浅野、世良 石太郎、熊谷 九八郎などが共同出資し、田川郡からの補助も受け日田から雇った陶工の坂本東伍と、十時器八郎の手伝いをしていた 吉田の分家 喜三郎の親戚であった吉田半市(吉田半市の妻が熊谷九八郎の姉にあたります)を雇って窯を直し火を入れてみたのです。しかし当時やきものは高価であり、思うように売れないことから次第に有志たちは操業から手を引き、最後に残った熊谷九八郎が1人窯を存続させました。そして1902年(明治三十五年)に熊谷本窯をおこし1938年(昭和十三年)に渡源彦が渡窯を復興させるまで上野の地でただ1つの窯元として上野焼を存続させたことは上野焼史上において特に銘記されるべきものです。

その後第二次世界大戦を経て高度経済成長期の最中、やきもの需要が高まり数多くの窯元が開窯しました。現在では20を超える窯元が上野焼として器を作っており、各窯元では初代、二代目が多くそれぞれの個性を出した多種多様な作風が見られます。

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上野焼の陶印について

上野焼の陶印

上野焼の陶印は左巴と言われる左回りの渦模様です。
現在の上野焼製品には必ずこの印が高台内や底面付近に入っていますが上野焼初期の製品には陶印のようなものはありませんでした。

細川時代の出土陶片にも茶会記(お茶会のことを記録したもの)にも上野焼に窯印があったことは見受けられません。
また小笠原時代においても巴の削り以外は特に陶印はないのです。
そしてその巴の削りも窯印を明確に意味しているのは後期のものか雑器のみであると考えられ、献上用の抹茶碗においては景色見所(お茶会の時の陶磁器の鑑賞ポイント)としての意味が強いのです。

この巴は高台を削る際 ろくろを左回転させながら、かんなで外から内に細く削ることでできます。同じ左回転でも内から外に削ることで右巴になり、小笠原時代中期の陶片を見ても右回り左回りがどちらにもあるのです。
つまり初期においてこの削りは模様として自然発生し、それが次第に左巴に限定され 窯をあらわす印に定着していったものと考えられています。明治以降巴紋ははっきりと窯印として認識されます。

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上野焼の特徴

上野焼湯のみ上野焼で一番に思い浮かべられる器の特徴というと"緑青(ろくしょう)流し"と言われる 透明釉、もしくは白釉の上に緑色の銅釉が流れたものが挙げられます。
この緑青流しは古くから上野焼で焼かれてきた訳ではなく、小笠原時代に釉薬の精製が発達し、技巧的な調合が可能になってきてからのものになります。緑青釉は銅がベースになっている釉薬で、近くに採銅所があったことから自然と銅系の釉薬が開発されたものだと思われます。
記録として最古のものは1796年頃に文書中に出てきますが陶片としてはそれ以前にも発見されています。
しかしその数は決して多くなく、あるいは偶発的に出来上がったものから試行錯誤して現在の緑青釉を発見したのかもしれません。
  上野焼はこの緑青釉をはじめとして藁白、鉄釉、灰釉、飴釉、伊良保釉、紫蘇手、卵手、虫喰釉、三彩釉、琵琶釉、透明釉、総緑青、柚子肌など他産地と比較して数多くの釉薬が使われており、これも上野焼の特徴の1つと言えます。
  もう1つの大きな特徴として薄作りが挙げられます。
茶陶として発展した上野焼は他産地の陶器と比べると非常に薄作りの軽い作りが特徴です。