あがの焼窯元 庚申窯(こうしんがま)

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6/18~6/24の日記

2020.06.25

コウヅルユウタです。

この日記は庚申窯のオンラインショップ

「くろつる屋」のブログを

1週間分まとめたものです。

 

 

6/18 テイカカズラと藤原定家の話11

6/19 愛の不時着とロマンスの話

6/20 テイカカズラと藤原定家の話12

6/21 レストランのお皿と思い出の話〜オーバル〜

6/22 テイカカズラと藤原定家の話13

6/23 汗ばむ季節と暑さの話

6/24 テイカカズラと藤原定家の話14

 

 

藤原定家の話、さっき14を書いたんですけど、ちょっとまた長くなりそうですね。もう藤原定家関係ないですけどね。テイカカズラも早い段階から関係なくなってますし。

 

 

くろつる屋の方もよければ覗いてやってください。

こっち↓の方が確実に読みやすいですよ。

 

 

 

 

 

テイカカズラと藤原定家の話11

 

6月18日 雨

本日のBGM  稲葉喜美子

 

 

源頼朝は不信によって身内を粛清していったわけですが、信用しない人は信用されないと言いますか、利害で繋がってた関係だと、必要でなくなったら切られてしまうみたいで、頼朝自身もまた北条家から裏切られる形になりました。鎌倉幕府のはじめの頃は裏切りの連続ですね。

 

 

この うちうちの戦いを制したのは北条家ですが、彼らは自ら上に立たず、あくまで執権(しっけん:将軍の補佐をするお助け役)という立場で、鎌倉幕府の実権を握っていました。

 

 

3代目将軍が暗殺されたことを 鎌倉幕府の混乱!今が好機!と後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は捉え、

 

「こぅらおまえら!執権とは口ばかりで幕府を裏から乗っ取るパラサイト野郎どもめい!わしがこの国の王じゃ観念せい!」と史上初の朝廷対武家政権のバトル「承久の乱」が勃発します。

 

 

この時の後鳥羽上皇の算段としては、「天皇が北条家を敵だと言っているんだから、全国の武士は必ず味方につくはず」というものでしたが、実際には鎌倉側に多く集まり、結果は朝廷の大敗となりました。

 

 

武士が多く鎌倉に賛同した理由として、北条政子がうまい演説をかまして士気をめちゃくちゃ上げたとも、武士は打算的で、勝ちそうな方、勝った際の利益が大きい方についてったら鎌倉勢がどんどん増えていったため とも言われています。

 

 

負けてしまった後鳥羽上皇はペナルティとして隠岐島でのスローライフを余儀なくされ、その子の順徳天皇も佐渡に島流しにされます。これにより定家と後鳥羽上皇は本当に2度と会うことはありませんでした。

 

 

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この承久の乱が起こったことによって、世の中の価値観がまた大きく変わることになります。それまで鎌倉幕府はいち地方政権にすぎず、朝廷という中央政権ありきのものだったのですが、

 

戦争後、朝廷は完全に幕府の監視下に置かれるようになり、領地もかなり奪われ、政治に関わることは幕府の許可をとってからでないと決定する事ができなくなりました。次の天皇を誰にするか とかも管理されてたみたいですね。

 

 

これ以降 朝廷の権力は失われ、武家が全国を統治する時代となります。

 

 

後鳥羽上皇はこんなことをしでかしちゃったもんだから、しばらくの間すんごく馬鹿にされてしまいます。

 

 

「もーあのごうつくばりの独裁オヤジめ。あいつが何でもかんでも一番になりたがるから、自業自得ならまだしも 俺らまで巻き添えくって もう鎌倉に頭が上がらなくなっちまったじゃねーか。どうすんだい あんな田舎侍にいいようにされちゃってまあー情けな、あ、お侍さま、いらしてたんですか。も〜やだな〜それなら早くいってくださいよ〜 使いのものをやらせて案内させましたのに〜」的な感じだったそうです。

 

 

歴史に「もし」はないと言いますが、「もし」この時 後鳥羽上皇が天皇の威光を過信せず、全国の武士に前もって報酬を約束していたらどうなっていたんでしょうね。

 

あるいは「もし」後鳥羽上皇が兵をあげずにそのまま東西に分かれて統治していたら。

 

いずれは幕府にとって変わられたのか、それとも幕府は内部で粛清しあって自滅したのか。承久の乱のおかげで北条家のカリスマ性が上がり、朝廷側から奪った領地を武士たちに与えたことで結束力が強くなったことは確かですからね。

 

 

じゃあ「もし」三種の神器が失われなくて、後鳥羽上皇がコンプレックスを抱えずに育っていたら そもそもこのような戦争を起こしたのか。

 

「もし」源平合戦で平氏が負けなかったら、「もし」源頼朝も義経も子供の頃に殺されていたら、「もし」平氏が勢力を強めなかったら、、

 

 

そろそろ「もし」がゲシュタルト崩壊してきたところでやめますが、このようにあったかもしれない可能性を考えていたら、どこまでも遡っていくことになりキリがありません。平氏が台頭してこなかったら後鳥羽上皇も生まれてないですしね。歴史はこんな感じでした。

 

 

次は藤原定家の話に戻ると思います。

 

 

 

愛の不時着とロマンスの話

 

6月19日 くもりのち晴れ

本日のBGM yutaka hirasaka

 

 

最近わが家のおばあさまが、姉の勧めで韓国ドラマ「愛の不時着」をお昼ご飯の時に見てるんですけど、食べる間だけ私も見ていまして、

 

どんなドラマかと申しますと、ネットフリックスの作品紹介では

 

パラグライダー中に思わぬ事故に巻き込まれ、北朝鮮に不時着してしまった韓国の財閥令嬢。そこで出会った堅物の将校の家で、身分を隠して暮らすことになるが…。

 

と書かれてまして、まあ調べていただいたら現在めちゃ流行ってるらしいので、宣伝映像などが いくらでも出てくるんですけど、

 

 

今日私が見た所では、主人公2人を探す 北の人たちがサウナで報告会をしてまして、彼らと主人公たちのすれ違いが面白いシーンなのですが、一緒に見ていた祖母の方はそのおもしろポイントを理解してなかったので、

 

 

私は親切心から、このシーンでは今どういうことが起こってて、どうしてこれが面白いのかの理由を述べて、そしてここが笑うところなんですよ、さあお笑いなさい、という野暮なこと極まりないユーモアの説明というものをしておりました。

 

 

しかしそんな些細なことは祖母にとってはどうでもいいことでして、祖母の関心はそれぞれの俳優個人と、本筋のラブロマンスがどう進行するかだけみたいです。

 

 

先に見ていたらしい母がどういう神経をしてるのかガンガンにネタバレするんですけど、それを聞いても祖母の方は平気で、むしろ事前に何が起こるか知っておいた方が物語を楽しめるのかもしれないですね。

 

 

ほんでこういったラブロマンスについて考えてみると、恋物語というのはいかに恋を成就させないかが大事なんだろうなと思いまして、

 

 

AさんはBさんが好きです。BさんもAさんが好きです。2人はねんごろになりました。

 

 

これでは物語にも何にもならないので、ここにいろんなオプションを付け加えて2人の恋路を邪魔していくわけですね。

 

 

例えばAさんの恋のライバル、明るくて真っ直ぐなCさんが登場。そして実はAさんには忘れられない過去の人Dさんがいて、Dさんは既に亡くなってるんだけど、それにそっくりなEさんが新規に出てきて、でもEさんは結婚していることが分かり、その相手のFさんは、実はかつてBさんと不倫をしていて、BFの事情を知っているGさんがすごく余計な感じでそのことをAさんに伝えてしまって、やっと心を通わせ始めたAさんとBさんの距離がふたたび離れ、ここに来てCさんの犬キャラがすごくいい感じに立ち回って株が急上昇して、今度は責任を感じたGさんがまた余計な気遣いで事態をややこしくするんだけど、その最中に出会ったCさんのことが気になり始めて、一方でEさんは遊び癖の治らないFさんのことを相談するうちにAさんとEさんの距離が、いけないとわかっておりつつも近くなってきて、Bさんの方はというと、ややこしい事態を引き起こしたGさんと一度はすれ違うものの、雨降って地固まるのパターンで再び友情を深めるエピソードが1話はさまれて、かと思ったらそれぞれ微妙に勘違いが進んでいたAさんとFさんが喧嘩になり、ここに来てFさんの真意がわかって、、、

 

 

とまあ思いつくままに書いてみたんですけど、こんな感じでラブストーリーって成り立ってるんじゃないでしょうか。このややこしい文面は読解力のテストになりそうですね。

 

 

あとはこれを活かすための舞台として、

 

 

主人公2人は生き別れのきょうだいだったとか、親の再婚でいきなり同居からスタートとか、偽装結婚の契約相手からだんだん恋人になっていくとか、お互いに敵国のスパイだとか、性格が真逆の双子との三角関係とか、友人が不思議な力で性別が変わってしまってそれにときめいてしまうとか、亀の親玉にお姫様がさらわれるとか、恋愛よりもカルタに夢中とか、

 

 

そんな感じで 2人の恋路には避けられない障害、または決して結ばれない運命〜sadame〜 がラブストーリーには欠かせないみたいです。

 

 

そうすると この恋の障害となる舞台設定には時代ごとに流行りがあって、使い古されては新しい設定が必要になってくるので、近年では性別転換とかトリッキーな設定が多くなってきてたように思うんですけど、

 

この「愛の不時着」はそういう面から見たらもう王道のパターンですよね。しかし北朝鮮にスポットを当てたというのがとてもいいアイデアで、

 

北朝鮮の将校と韓国の金持ちのご令嬢というのは恋路の障害としてすごくわかりやすいですし、2人のコントラストがはっきりしてるから、文化の差や経済格差が物語を彩るエピソードになって興味が持続します。

 

 

また北朝鮮は情報があまり公開されないから、そこで暮らす人々の様子を再現するだけで、なんていうか知らないことを教えてくれてお得! みたいな「ためになる感」があって、それらのおかげで王道ラブロマンスを新鮮に見る事ができるんだと思います。そうなると王道はめちゃくちゃ強いですよね。

 

 

なにより実際の韓国と北朝鮮の状況があるわけですから、このお話は日本人からすると、大変想像しやすいんじゃないでしょうか。2つの国の事情を想像できる予備知識がしっかりあって、なおかつお隣の国なので、地続きでないからリアルになりすぎず、幻想を持ちやすい距離感ではないかと思います。

 

 

ていうか韓国と北朝鮮をそのままキャラクターにしても ラブロマンスとして成り立ちそうですね。じゃあその他の登場人物ってCさんとかJさんとかAさんRさんとかになるのかしら。これはまた複雑そうですね〜。

 

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テイカカズラと藤原定家の話12

 

 

6月20日 くもりのち晴れ

本日のBGM Keith Jarrett Trió

 

 

前回の話は、自分を認めない貴族たちの古い価値観を否定して、新しきを目指していた後鳥羽上皇の選択が、自分を含めた貴族の時代を終わらせ、武家社会が始まるきっかけになったという、なんとも皮肉な話でした。

 

 

じゃあ後鳥羽上皇は宮廷のルールにしたがって、周りのご機嫌をとって生きていくのがよかったのかと言うと、

 

その方が幸せになれたかもしれませんし、朝廷も権威を保ち続けることができたかもしれません。しかしそれは「後鳥羽上皇が生きる」ことにはならなかったんでしょうね。

 

 

しかし望んだ方向ではなかったにせよ、後鳥羽上皇の選択により 時代が変わり、新しい価値観が人々にもたらされたことは、後鳥羽上皇が生きた記憶をつなぎ続ける確かなものになったのだと思います。

 

 

そんな後鳥羽上皇は島流しにされた後、宮廷ではあんまり触れてはいけないタブーな存在になっていました。

 

 

一方で藤原定家は、後鳥羽上皇に怒られて謹慎処分になっていたんですけど、承久の乱で後鳥羽上皇系の有力者が失脚したことで、定家の親戚筋の人たちの勢力が強くなり、おかげで定家は出世することができました。

 

 

承久の乱による勢力図の書き換えは、定家にとってはプラスに働いたみたいです。

 

 

ていうのも後鳥羽上皇とのゴタゴタした衝突があったもんだから 定家の出世はずっとストップされてたんですね。やはり上役に逆らっちゃいけませんね。

 

 

そして定家は、後堀河天皇から「新勅撰和歌集(しんちょくせんわかしゅう)」の編纂を1人で任されます。これは当時の歌人として最高峰の仕事だったみたいで、やっと理想の和歌集を作れるぞー! と気合を入れて選曲作業に取り組みます。

 

 

その選曲リストには宮廷でタブーとなっていた後鳥羽上皇と順徳天皇(じゅんとくてんのう:後鳥羽上皇の子供。佐渡に島流しにされた。)の歌が入っていました。

 

 

定家にとってこの2人は、衝突してはいたものの、歌の歴史をまとめる際には 絶対に欠かすことのできない歌人でありました。

 

 

しかしこれについて後堀河天皇から「これさ〜 まずいでしょ〜、ねえ?そう思わなかった? あ 思わなかったんだ。いや後鳥羽上皇だよ〜まずいよね〜これは。まずいと思わない?鎌倉幕府がいい気しないよね〜 まずいよ〜。だからここはさ、ひとつ呑み込んでちょうだいよ。ね。わかるでしょ?」と釘を刺されます。

 

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このことを受けて定家は深く落胆します。後鳥羽上皇も幾度となく介入をしてきましたが、その向こうには上皇の 我の強い顔が見えていました。

 

 

しかし今回のケースでは、まだ起こっていないことに気を揉んで、リスクを避けて事を穏便に済ませようとするそれは、「正しいこと」なのかもしれませんが、決して芸術とは交わらない態度だったからです。

 

 

その意味で言えば、わがままを押し付けてきていた後鳥羽上皇は、実は同じ土俵の中にいて、その中で2人の衝突があったのですが、

 

今は主体のない空気のようなものに、その空気を乱さない選択をぼんやりと迫られていて、抗ってもその先には誰もいないという事に定家はひどく失望しました。

 

 

定家は後鳥羽上皇の時ほど反発せず、新勅撰和歌集の選曲はわりとスムーズに終わりました。 

 

 

そして出来上がった歌集には、後鳥羽上皇と順徳天皇の歌はすべて削除され、代わりに鎌倉武士の歌が多く入集していました。そして選者である定家の歌は必要最小限しか収録されていませんでした。

 

 

次はようやっと百人一首にいけそうですね!

 

 

 

 

レストランのお皿と思い出の話〜オーバル〜

 

 

6月21日 くもりのち晴れ

本日のBGM The Spinners

 

 

昨日 遠方のレストランの方からお問い合わせをいただきまして、サイズ感や質感、実際にお店で使用した際の見え方などを知りたいということと、できるだけいろいろなタイプのお皿を見てみたいとのことでしたので、

 

今日は手元に残っているお皿を引っ張り出して、サンプルとして発送するものを選んでいましたら、けっこういろいろ作っておるなあと思いまして、

 

たぶん中にはもう作らないものもあると思うので、せっかくなのでそれぞれのお皿の写真を撮って、お皿の制作にまつわることなども忘れないうちに書いておこうと思いまして。

 

 

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いちおう庚申窯のホームページにも写真と説明はあるんですけど、あちらではちょっと固い感じなので、こちらでは砕けた感じで。

 

 

今回お問い合わせいただいたのは、あまり有機的な形でない、つまりでこぼこした形とか、手の跡をぶりぶりに残してるとかではない感じの、

 

円とか楕円とか四角とか三角とかのシンプルな形のもの ということでしたので、そんな感じので在庫にあるやつを今回はピックアップしました。

 

 

ちなみに三角形は陶芸を始めたての頃に作ったけれどあまりよくなくてですね、今はもうないんですけど、機会があれば三角でかっこいいのを作ってみたいです。難しいのは、正三角形って意外と尖ってる ってところなんですよね。どうしても奇をてらった感じになってしまいがちです。

 

 

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これはわりと最近作ったもので、オーダーメイドのものだったんですけど楕円形のボウルで、「オーバル」という名前の器ですね。まあぶっちゃけルーシーリーのパクリなんですけど、でもやっぱりボウルってちょっと楕円に歪ませたほうが格好がつきやすいんですよね。

 

 

お皿のフチに高低差ができるので、それがうつわの動きになりますし、食べる時も、体とお皿の中心までの距離が近くなるから、食べることに対する集中性は普通のボウルよりも高くなるんじゃないでしょうか。

 

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これ↑はあまり楕円の強くない方でして、これを作った時に楕円のきついバージョンと、この緩やかなバージョンどっちも作ったんですけど、シェフの方によって そのどちらがいいかは分かれるみたいです。楕円のきつい方↓が見た目のインパクトは強いですね。ただ重なりがめちゃくちゃ悪くなるというデメリットがありますが。

 

IMGP6966のコピー-4

 

楕円に歪ませることには「けっこう形をごまかせる」っていう利点がありまして、実は正円でかっこよく作るのには かなり技術がいるんですけど、歪めてしまえばその歪みの方に意識が向くので、ちょっとミスってたりするところも気付きにくくなります。だからとりあえず歪ませておけば「あえて感」が出ていいんじゃないでしょうか。

 

 

このお皿は内側が白化粧土のハケ塗りで、外側は赤土に酸化銅を混ぜた化粧土をすごく薄めてハケ塗りしていまして、塗りの厚いとこ薄いとこで濃淡が出て、器の表情を多層的に見せてるんですけど、料理に意識を集中してもらうために、内側の白がパキッと目立つよう 外側は引き立て役で この落ち着いた色になっています。

 

 

あと高さのある器なので、内側と外側で色を分けて、コントラストをはっきりさせておいた方が、横から見た時の輪郭がきれいに見えますね。

 

 

この楕円形のボウルを作る際の注意点は、あとから削って薄くすることはできないので、ろくろで形を作るときに「なるべく薄作りにしておくべし」ということですね。

 

 

この形を活かすにはフチが薄い方が見た目の切れ味が増すので、フチを薄くした方が良くて、それならボディの方も軽い作りにした方が、無意識下での印象が良くなると思います。まあ私がこのとき作った楕円のきつい方はけっこう重いので反省しています。

 

 

あるいは高さが出ても構わなければ、高台をつけてあげたほうが作りやすくて、格好が引き締まりやすくなると思います。

 

 

えーボウル1点だけでいつもの文量になってしまったので、今回はオーバルボウルだけ紹介させていただきました。また他のお皿も記録がてら紹介させていただきたいですね。

 

 

前に作ったオーバルのサンプルの写真があって、せっかくなのでそれらも披露させていただきます。色のパターンをいろいろ試したものですね。

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この釉薬は見た目はかっこいいんですけど、この色味を出すためには厚がけする必要があって、焼き上がったら器に厚みが増して、重たくなるので悩ましいところですね。

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これは白化粧土のみ

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これ↑とかけっこういい感じだと思うので、色のパターンだけでも応用したいですね。確かコバルトを混ぜた化粧土だったと思いますけど。

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そのコバルトの化粧土のハケ塗り

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こっち↑は化粧土にグレーの顔料を混ぜたものですけど、焼き上がりはちょっと緑がかって見えますね。

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これは練り込みで作って、木の灰を全体に振りかけて焼いたやつ。本当はもっと土の色に差が出るはずだったんですけど。

 

 

 

 

 

 

テイカカズラと藤原定家の話13

 

6月22日 快晴

本日のBGM Star Number One De Dakar

 

 

前回の新勅撰和歌集が完成した2か月後に、嵯峨山荘に飾る和歌として、百人一首は色紙に染筆されます。ちなみにこの時 定家が色紙に書いた百人一首は、小倉色紙と呼ばれ、中世で茶室の飾りとして大流行します。100枚しかないから すんごいお宝になっていたみたいですね。当然ニセモノもいっぱい出回ったそうですが。

 

 

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さて百人一首は王朝の歴史絵巻と言われているように、第1首目は天智天皇から始まり、99首目と100首目には、新勅撰和歌集に入れることのできなかった後鳥羽上皇と順徳天皇の歌が入っています。

 

 

天智天皇は中大兄皇子という名前の方が教科書的には有名で、大化の改新によって豪族の時代から天皇中心の政治に変わった時の天皇です。

 

 

一方、後鳥羽上皇おやこは それを終わらせた方ですから、百人一首は天皇中心であった時代の 始まりから終わりまでの悲喜こもごもを100首で表そうとしたものなんでしょうね。

 

 

「聴けば懐かしのあの時が蘇る。。藤原定家プレゼンツ!さよなら平安王朝、600年から選りすぐり!大伴家持、小野小町、西行法師、青春を駆け抜けた憧れの歌手たちの 忘れられない珠玉の名曲100選!」みたいなものでしょうか。

 

 

新古今和歌集が2,000首近く、新勅撰和歌集が1,400首近くですので、600年近くの歴史の中から100首を取り出すというのはめちゃくちゃ厳選されたものでして、つまり この100首は完全に 定家の選定意図が入り込んでいます。

 

 

どんなものでも選ぶという行為には編集者の意図が入り込むもので、逆にいうと編集者の意図が入っていないものって ちょっとつまんないんですよね。

 

 

例えばですけど売り上げが年間一位の曲だけを集めたコンピレーションアルバムみたいなもんで、一番いい曲だけ集めても一番いいアルバムが出来上がるわけではなくて、どの曲とどの曲を組み合わせるかで、アルバムの個性は大きく変わります。

 

 

同じように百人一首も、時代を代表する歌人たちのオールタイムベストな一首ばかりを選んでいるわけではなくて、それぞれの組み合わせによって、定家の意図したなんらかが表現されるように選ばれているはずです。

 

 

定家は和歌を作る際でも、感覚優先ではなくて、論理的な組み立てで歌を作っていて、それで周りから難解だと非難されてたわけですから、百人一首も それぞれの歌には「なぜその歌なのか」の理由がはっきりあると思います。

 

 

つまり百人一首の個別の歌は歴代の歌人の作品で、その寄せ集めには違いないのですが、百首の「組み合わせ」は紛れもなく定家の作品であり、それこそが百人一首の魅力なんですね。

 

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百人一首は新勅撰和歌集と同時期に撰定されてたようで、妥協せざるを得なかった新勅撰和歌集に対する反感が、より定家の思想を純化させるエネルギーを産んだのかもしれません。

 

 

あるいは公共事業である新勅撰和歌集を妥協して仕上げるためには、私生活の方で自分のやりたいものを思い切りやることでしか 自己のバランスが取れなかったのかもしれませんね。

 

 

百首の中には王族だけではなく武家も入っていて、93首目には定家が通信教育で和歌を教えてた鎌倉幕府3代将軍の源実朝の歌が収録されています。

 

 

そしてテイカカズラの元ネタとなった式子内親王の歌も89首目に入っていて、定家自身の歌は93首目です。そして全体としては風を詠んだ歌が多いですね。

 

 

ただ私は前も申しました通り、個別の歌は知りませんので、今回は後鳥羽上皇と定家の歌だけ取り上げてみます。

 

 

なぜこの歌なのか、編集者の定家からすれば ぜひ想像して欲しいでしょうね。

 

 

後鳥羽上皇

 

 

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

 

 

 

雑な意訳

 

人を愛しく思う 恨めしくも思う 世の中はつまらないと思う って思う

 

 

 

 

 

藤原定家

 

 

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

 

 

 

雑な意訳

 

 

もう会うことのない人を いつまでも待ち焦がれてる

 

 

和歌の話 もう少しだけ続きます

 

 

 

汗ばむ季節と暑さの話

 

6月23日 晴れ

本日のBGM Wanda Sá

 

 

例年だと今頃は連日の雨に辟易してるころなんですけど、梅雨にも関わらず本日も好天でございまして、ブラジルの音楽でも聴いたろかいってな天気で、汗ばむような暑さでしたね。

 
 

 

 

上野焼(あがのやき)のある福智町上野は涼しいイメージを持たれていますが、標高で言えばわが家が99メートルくらいなので、標高による気温差というのはそこまでないようです。

 

 

でも田舎なのでコンクリート率が低く、木も多いので熱はこもりにくいのかもしれません。風も吹きやすいところですからね。

 

 

などと言いつつ私は結構暑さが平気なたちですので、夏はチラシにも書いてる通り得意なのです。

 

 

が、今まで人の話を聞いてきた中では 暑いのが嫌いという意見が実に大多数でして、暑さに対する認識にギャップがあるようです。

 

 

しかし前から思ってたんですけど、もしかしたら暑いのが嫌いという人も、暑さ自体はそれほど嫌いではないんじゃないでしょうか。

 

 

だってサウナとか大変人気なわけで、あれはめちゃくちゃ暑いですよね。自然界であんな温度だったらほとんどの生き物死滅してますよ。そのため私はサウナを修練場のように思っていて、あの部屋は忌避すべきものと捉えておりますので、こっちの認識にもギャップはあるんですけど、

 

日常とサウナの違いは何かというと他人の目ではないかと思いまして、綺麗なおべべで着飾ってる時には やはり暑さって相性よくないですもんね。

 

 

汗染みだったり汗の匂いだったりが気になりますから「汗をかかないように」と思うと 暑いということが憎らしく思えてきます。汗かかせんなやこのやろうって。てことは服自体が暑さとは相性が良くないんですかね。

 

 

汗をいくら垂れ流しても誰も文句言わなくて、ベタつく前にさぱさぱ洗い流せる環境だったら、暑いことはそれほど苦痛ではないんじゃなかろうかしらん、というのと、

 

暑い中何かを強制されるってのは、これまた苦痛ですよね。組体操とか山登りとかマラソンとか。マラソンは常に嫌ですけど。

 

 

暑さは行動とも相性が悪いみたいで、体を動かすと熱をもちますから、熱×熱でひーはーってなもんで、本来暑い時にバリバリ動くようにできてないんでしょうね哺乳類って。寒さに耐える進化をしておりますからね。

 

 

これかつての農耕社会より さらに前の狩猟社会の人間だったら、暑い時にわざわざ狩りに出かけなかったんじゃないかと思います。涼しくなってから行くべーやってなもんで。

 

 

農耕になると毎日手入れしなきゃいけないから暑い時でも問答無用で作業が続きますけど、その延長で現代の働き方も、時間が決められてて、暑い時間帯に外に出なきゃいけないとかだと これは大変イライラしそうです。

 

 

服と体を動かすことの強要、大きくこの2つが暑さを嫌いになる要因だと思うんですけど、そうだとしたら私が暑さを嫌いでなかったのは労働環境のおかげだったんですね。

 

 

それほど人に会わないし、思い立ったら水浴びできるし、昼でも夜でも好きな時間に仕事して構わないので、暑さによる不快さを回避できる条件が整っているんです。

 

 

あと陶芸家というイメージにも甘んじておりまして、人に会う時に小汚い格好でも、なんかそれが逆に飾らない職人気質みたいに思われると思って、身なりと匂いにそれほど気を使わなくなると暑さへの嫌悪感がぐっと低くなりますね。

 

 

以上のことから分かるのは、人間社会を運営するのに 暑さというのは大変に相性が悪いのではないかということで、ちゃんと社会生活を送ってる人ほど暑さを嫌がっていて、要するに堕落してる人は暑さに強いんじゃないかと思いました。

 

 

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↑今日窯出ししたものですが 涼しげでしたので。

 

 

 

 

テイカカズラと藤原定家の話14

 

 

6月24日 晴れ
本日のBGM Solomon Burke

 

 

百人一首が現在まで愛されるようになった要因の一部に、藤原定家の書いた小倉色紙が茶人たちの間で大人気となり、定家の字も「逆にいいよね」ってって一般ピーポーの間でも大いに流行ったという出来事があります。

 

 

定家は歌人であると同時に、古い文献を書き写す仕事をしていまして、毎日文字を書いていたわけなんですけど、

 

字のうまさは書いた量に比例するといいますから、毎日文字を書いていれば筆運びが上達して綺麗な字を書くようになります。陶芸も似たようなところがありますね。

 

 

ということは定家のあのヘタウマな字は完全にわざと書いていたわけです。というか世間で言うところの「上手な字」を書くつもりがなかったといいますか。普通は大量に字を書くうちに、お手本のような整った文字になりますが、それに反発するだけの強い自我、言っちゃえば傲慢さが定家にはあったんでしょうね。

 

 

そしてその傲慢さが、一つのスタイルとして数百年後に大流行するわけで、だからいま 変だと言われてる人たちも、価値観が変われば時代の先駆者と言われますから、大いに奇人として暴れまわって欲しいと思います。まあ全員認められる訳じゃないけど。

 

 

ちなみに陶芸でも、毎日ろくろを回してて、それでも下手に作れるというのはかなり凄いことです。普通の人はまずできません。作り慣れてしまったら、整った形に「しか」作れないのです。

 

 

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さて、前回 なぜこの歌なのか、定家は想像して欲しいと思ってる、といったことを書きましたが、

 

この想像するというのが和歌の1番大事なポイントでして、和歌が芸術として成り立つのに想像力は欠かせないものです。

 

 

「芸術とは何か」、良く議論される題材ですが、今のところ私は「芸術は感動するもの」と思っておりまして、

 

音楽でも映像でも触感でも味でも なんでもいいんですけど、それらの刺激によってもたらされた感覚が、頭の中で像を結んで、その結果 感情が動くことが感動であって、感情を動かすことのできるものが芸術だと思います。

 

 

なので、感動というのは「お涙ちょうだい」みたいなものに限らず、悲しいでも怒りでも絶望でも快楽でも笑いでも なんでもよくて、それらは方向性の違いであって、感情の動きという意味では同じものです。

 

 

そして芸術にもあらゆるタイプがあるのですが、共通するのは「感情を動かすことを意図して、作られたもの」になります。もちろん偶然そうなってる場合もありますけど。

 

 

感情というのは日常の中でもよく揺さぶられていて、この振れ幅が大きいほど、本人の感動、またはショックは大きくなりますが、だいたい人は成長するに従って感受性は鈍り、感動する度合いも減っていきます。

 

 

子供たちが些細なことで大はしゃぎしたり 泣き叫んだりするように、感受性がギンギンな時期は、日々の感情も大きく動いているんですけど、経験や知識が増えるにつれて、ただの刺激ではそうそう感情は動かなくなるんですね。(感受性がもともと強い人や、歳とともに衰えない人もいます。実はそれは今の社会では大変に生きづらいんですけど)

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ただの刺激では感動しなくなる代わりに、経験や知識が増えると、ただの刺激に意味や背景を見ることができるようになります。それは記憶と比較する力や、どうしてそうなったかを推測する力によって、つまり想像力によって、ただの刺激を面白がることができるようになるからですね。

 

 

ただ それでもかつての感動を補いきることはできないので、感動を補足するために芸術は存在します。ここでいう芸術は物語とほとんど同義ですね。

 

 

もちろん芸術のタイプとして、物語性のない、圧倒的な物量とか サイズとか 全く新しいもの などを見せつけられると感動しますが、

 

それは「刺激」が 大きい / 新しい ということによる感動で、慣れてしまって新鮮味がなくなれば、感動は少なくなります。ただその初回の驚きは、子供時代のような根源的な感動に近いと思います。

 

 

続きます!

 

おれ

 

高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目

 

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