あがの焼窯元 庚申窯(こうしんがま)

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陶芸体験のや周辺のニュースをお伝えします。

7/2~7/8までの日記

2020.07.12

コウヅルユウタです。

この日記は庚申窯のオンラインショップ

「くろつる屋」のブログを

1週間分まとめたものです。

 

 

7/2 レストランのお皿と思い出の話〜キャンバス〜

7/3 田植えと焼き直しの小皿の話

7/4 テイカカズラと藤原定家の話18

7/5 トンボとペンキの話

7/6 雨と適当さによるバランスの話

7/7 テイカカズラと藤原定家の話19

7/8 テイカカズラとののちゃんのおばあちゃんの話

 

 

この週でテイカカズラと藤原定家の話は終わりになります。

 

私の性格として、なるべくデスクトップは綺麗にしておきたいというか、忘れることで新しいものを思いつくことができると思っていまして、

 

和歌の話から発展して、人間の幸福というものの正体は、人生の展望がまだ定まっていない、可能性を多分に含んだ状態の時に、頭の中で自分に都合の良い幻想を抱いている時ではないかしら、ということに テイカカズラ〜 の一連の話で触れてたんですけど、

 

この事について考えをまとめさせていただいて、それが文章として残っていれば 私は安心してこのことを忘れることができて、また別の可能性を追いかけることができる という そんな感じですね。

 

考えや意見は自分の中にだけ長いこと置いておくと、意固地になって、一つの考え方に固執してしまうと思いまして、どうせ歳を取ったら体も頭もある程度は固くなるんだから、今のうちからなるべく柔軟体操をしておこうと思います。

 

 

くろつる屋の方もよければ覗いてやってください。

こっち↓の方が確実に読みやすいですよ。

 

 

 

 

レストランのお皿と思い出の話〜キャンバス〜

 

7月2日 晴れ

本日のBGM Chet Baker

 

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これは「キャンバス」というシリーズのお皿でして、「料理を描くためのお皿」ってことでそんな名前になっています。この白の真四角がベースのものになるんですけど、色違いもいくつかあります。こちらは↓黒のキャンバス。

 

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作ったきっかけは、前に箱庭をテーマにしたハコニワ展というのをやった際に、箱→四角→四角いお皿って感じで作ったものだと思います。安直ですね。数合わせでしょうか。

 

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まあこの形と色に関しては 作為が入る余地がほとんどないので、わざわざ作らなくてもいいような気もしますが、でもこういうシンプルで どこにでもありそうなものって 実は意外となかったりするんじゃない?ってことで作ったような気もします。

 

 

シンプルな形のものは、質感が そのお皿の印象を左右するので、なるべく素材感をしっかりしたものにしようと、粘土や焼き方に気を使って作っていますね。

 

 

磁器のお皿と差が出るように、土ものっぽい暖かみや、白の中にも焦げ感とかが出るよう意識しています。真っ白よりも、少しくすんでる白の方が、むしろ背景としては優秀な気がします。

 

 

個性はないお皿ですが、その分 汎用性は高いそうで、使い勝手は良いみたいです。私の印象はまさにフラットな感じですね。当たり前すぎる形なので。

 

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こっちはまた別の色違いのやつで、前に作ったものだから角の丸みが強いですね。あまり尖ってると欠けやすくなりますからね。陶器は弱いので。

 

 

この色は、あがの焼の「緑青(ろくしょう )」という緑色の釉薬を、お皿のおもて全体にコンプレッサーで吹き付けて酸化で一度焼いたあと、低い温度で焼き直して出した色になります。

 

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でもお皿自体をフラットにするために、一度釉薬をかけずに還元で焼き締めているので、素焼きも合わせたら合計4回焼いていますね。いやーそう考えたら結構手間かかってますな。ちなみに白いキャンバスは2回で済みます。黒は3回。

 

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しかしこの色は独特で、濃い緑の中に明るい緑が無数に浮いていて、こういうのは釉薬ならではの発色だと思います。あと焼き直しにより質感がサラサラしていて けっこう心地よいのと、角度によっては釉薬の表面が虹色みたいにきらめきます。

 

低い温度で焼き直したため、炭素皮膜がどーたらみたいなことなのかしら。オリジナル性は高い釉薬ですね。好き嫌いの分かれる色でもありますが。

 

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こちらは釉薬ではなく、色の違う土を練り込んでこんな模様になっているものです。その技法の名も「練り込み」 そのまんま。

 

 

↑背景が木だとすげー馴染みますね練り込み模様。でも木にはこんな模様のパターンはないんですけどね。色の揺らぎ具合が自然物のものと近いから 木のように感じるのでしょうか。大理石柄でもあります。

 

IMGP4096のコピー

 

白背景ではこんな感じです。こちらは赤土が多めで、よく焼きしまっているやつで、何度も焼くから赤土の中の鉄分が溶けて、ちょっと金属っぽい光沢が出ています。大変渋かっこいい状態ですね。こうなったときの土の質感は陶器ならではのものがあると思います。

 

 

このお皿は白のキャンバスとは違う形をしていまして、ちょっと立体的な作りになっています。

 

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このお皿、実は おもて裏 使えるように作られたもので、ひっくり返すとフラットなお皿ではなくて、フチが少しあるお皿になります。一旦厚めに作って、裏側を彫り出しているのですが、土を練り込んで作っているので、彫ったり切ったりしてもまた模様が出てきます。

 

 

その裏側の写真は撮り忘れたんですけど、結局このフラットの面しか使わないということで、少し高さがあるだけのお皿になりましたね。

 

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表でも裏でもひっくり返しやすいよう、お皿のふちが斜めに切れ込んでいます。そのためお皿として機能する面は少しだけ長方形になっていて、置く向きによって印象が変わるお皿です。また. 作るのが大変めんどくさいお皿でもあります。

 

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これも上と同じく練り込みなんですけど、この色の加減はオーダーされたもので、赤土少なめ、白と中間の土多めという配合で作ったもので、土ごとの色の差がはっきり出過ぎないように砂を表面に叩き込んで、表面を砂混じりの質感にして、色の印象も統一感が出るように作られています。

 

 

このお皿は四方がハネていまして、横から見るとこんな感じで、

canvas2のコピー

 

この形に仕上げるためには、粘土で作っているときにフチをあげてはなりません。むしろ粘土の時は まっすぐフラットまったいらに作って、そのまま素焼きします。

 

 

素焼きの状態では一番上のキャンバスと同じ ぺったんこの状態なのですが、これを本焼きするときに、四方に柱を置いて、中心を浮かせた状態でしっかり焼くと、このような自然な曲線を持ったお皿ができます。

 

 

つまり焼いているときに粘土は柔らかくなるんですね。そのために薄く作っておいて、熱で曲がりやすいようにしています。柱の高さを全て同じで焼いているので、それぞれのお皿の曲がり具合も均等で、わりとスタッキング性は良いです。このお皿は少し小ぶりで、和食とかの方が相性良いかもしれません。

 

 

あとキャンバスのお皿はひっくり返して使うデザインで、あと2例くらいアイデアがあって作ろうとしていましたが、技術が追いついていなかったので実現しませんでした。またいつかチャレンジしてみたいですね。キャンバスというお皿たちでした。

 

 

 

 

田植えと焼き直しの小皿の話

 

7月3日 くもりのち雨

本日のBGM The Crusaders 

 

今日は風が強くて、風嫌いのわたしにはうっとうしい日だったんですけど、風が強いだけじゃなくけっこう寒くてですね、寒いのは風よりも嫌いなんですけど、

 

祖母によると稲の苗床を作っている時期や 田植えの済んだ後なんかに寒さが戻ることを昔は「田植え寒」とか「のうしろかん」とか言っていたそうで、苗代寒ってことでしょうか。方言でしょうね。

 

 

田植えの時期も今よりも もっと遅かったそうで、その当時は人の手で植えていましたから、お金のある農家は「ちっこさん」という田植えをやってくれる女性たちを集団で雇って苗を植えていたそうです。

 

 

ちっこさんは筑後さんがなまったもので、筑後の人達が集団でやってきていたそうです。ほとんど若い女性だったそうですが男性もいたとか。

 

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あるいは十数軒の農家で協力して、お互いの田んぼを順に回ってみんなで田植えをしていたそうで、となると一日で一軒の田んぼとしても半月くらいかかりますから、そのへんも時間がかかってたそうです。

 

 

田植えの上手な人は奥様連中のスターだったそうで、どこどこの奥さんはぽんぽこ苗を植えてまわって、まるで田んぼの中で踊っているようで、田植えの時期の人気者だったそうです。

 

 

祖母は苅田という北九州の町の方から来ましたから、当時の田舎と町では全然暮らし方が違っていたそうで、来た当初は慣れないことも多かったみたいです。現在は便利になった分何かを失ってしまった。。などとエモい感じを差し込みつつ、

 

昨日焼いた窯で出てきたお皿がかなり良くてですね、これらは注文で作っていた小皿の、釉薬の発色があまり良くなかったお皿たちを、再び釉薬をかけて焼いたもので、庚申窯では「焼き直し」と言っていますが、焼き直しの小皿たちです。

 

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焼き直しをすると、もとにかかっていた釉薬と、上からかけた釉薬がユニークな感じに混ざって複雑な模様になりがちなのですが、今回のは全て同じ釉薬の組み合わせにもかかわらず、様々なバリエーションが出てきまして、せっかくなので一通り紹介させていただきたいと思います。

 

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こちらは黒いものの中心に青がたまったもので、ギャラクシー感のある小皿です。寄りで見るとこんな感じで↓

 

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青の中にいい具合に黒が弾けてて、それが奥行きを生んでいますね。この白い点々は多分ピンホールでしょうか、星っぽく浮かんでいますね。これは元の釉薬が濃くて、うまく溶けていなかったものを焼き直したものになります。青色に深さがあるのがいいですね。

 

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こちらは左側のスパッと切れた 釉薬の境目がすごくいいやつですね。部分食みたいな感じ。カーブが逆ですけど。普通に焼いてもこうはならないんですよね。

 

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この小皿は上と同じ釉薬なんですけど、最初に焼いた時に青が少なくて、黒しか発色してなかったので、もう一度上から青をかけて焼いたらこんな感じになりました。

 

 

おそらくこの青がしっかり溶ける温度になってなくて、青の部分だけが黒の表面をすべって、青同士でギュッと縮んだんでしょうね。1箇所だけ他と違うのは、そこが窯の中の火口に近かったとか?

 

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こちらも一つ前と同じパターンのやつなんですけど、少し還元がかかってるんですよね。灯油窯の酸化で焼いたんですけど、火の通りが悪かったみたいです。酸化焼成、還元焼成ってのは酸素を入れるか、入れないか という異なる焼き方のことですね。完全燃焼と不完全燃焼みたいなものです。

 

 

窯の火の通りが悪い(不完全燃焼な)方が、釉薬は面白く変化します。ちなみに青は還元されるとピンクっぽい色になります。このお皿は両方の色が出てて 星雲みたいな感じ。

 

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これは左半分と右半分で色が違っていまして、左が酸化で、右が少し還元かかっていますね。灯油窯には火口が2箇所あるんですけど、どちらかの火が強かったみたいです。

 

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これはまたガラッと変わって、窯の下の方に詰めてたやつですけど、下の方が温度低くて還元もかかりやすいのでこんな感じになったのでしょうね。

 

 

普通 焼き直しの品は一度溶けてるものだから 融点が下がるんですけど、今回のはもうちょいしっかり焼いた方が良かったみたいです。でも焼きが甘いおかげでこの色になったわけで、どっちがいいかは好みですね。気に入らなければまた焼いたらいいですし。

 

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こちらは一つ前と同じパターンですが、酸化で焼けていますね。このひび割れみたいな感じは焼き直し特有のものです。釉薬がお互いを引っ張ってるんですね。

 

 

普通は土の上に釉薬なので、釉薬が土に馴染むんですけど、焼き直しは釉薬オン釉薬ですから釉薬の上を滑ります。でもこれはこれで渋い感じ。

 

 

あとはその他のバリエーション↓

 

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焼き直しは本当にその都度 色が違いまして、コントロールの外にいるので、こうやってできたお皿も、その時だけのものになります。一期一会ですね。またエモい感じ。思春期のかほりがしますね。

 

 

ちゃんと実験を重ねて 検証すれば 意図的にこのような色を出すこともできるのですが、それは私には不向きなので今後とも適当に行きたいと思います。適当のおかげでサプライズもありますしね。

 

 

並べてみると、違う色ですけど 元は同じ釉薬だからなんとなく統一感がありますね。どちらがお好み?

 

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テイカカズラと藤原定家の話18

 

7月4日 くもりときどき晴れたり雨

本日のBGM Luiz Bonfa

 

和歌って古臭いイメージがあったんですけど、よく考えたら聞き手の教養や想像力を前提とした芸術のスタイルというのは なかなかに先進的なもので、これは非常に文化レベルが高いですよね。

 

 

この形を必要としない創作のスタイルというのはすごく強くて、形がないから時間が経っても色褪せないんですよね。幻想だけを生かし続ける技法というか、

 

形のある芸術というのはどうしても それが作られた時点からだんだんと劣化していきますから、なかなか普遍性を持つことは難しいです。それは形を持つということそのものが普遍性とは相容れないからです。

 

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例えばミロのビーナスって腕のない半裸の女の人の大理石像がありますけど、あれは腕がないから芸術としての価値があるのであって、腕があったらむしろ困るそうです。

 

 

ミロス島で発見された時から腕がなかったことにより、見る人はあの像を不完全な形として捉えて、頭の中で腕の部分を補完するんですね。

 

 

そうすると完成形は、頭の中で具体的な形を持たないまま美化されます。頭の中でも形は持たないんですね。でも実は頭の中で「理想的な」完成形が無意識のうちに描かれています。

 

 

まあー 例えるなら男性が マスクをしてる女性を見て、具体的にどんな顔かとか意識しなくても「自分にとって理想的な」顔立ちを、実は無意識の中でイメージして、相手の顔を補完していますよね。それでマスクを外したら勝手にがっかりしちゃったりして。

 

 

これと同じことがミロのビーナスにも起こっていて、もし腕が発見されたら「あ、なんかねー、うん、なんかーねー、想像とー違うんだねー。結構ねー」みたいになって幻想が消えてしまいます。

 

 

つまりミロのビーナスは腕がないことにより今なお芸術であり続けられるのですが、失われた部分を妄想させるためには、失われてない部分が秀逸である必要があります。ミロのビーナスなら体の作り、マスクの女性なら目元とかですね。

 

 

この状態になることができれば、それぞれの人が、自分にとって理想的な妄想を抱いてくれるから芸術はものすごく寿命が長くなります。それを意図的にやっているのが和歌なんですね。

 

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和歌は具体性を排除したからこそ想像できる範囲をものすごく広く持つことができて、それゆえに時代を超えて普遍性を持つことができ、百人一首も現代までつながってきたのですが、

 

想像させるための装置がわずか31文字しかないので、この31文字は本当に優れた構成でなければいけません。例えるなら体のほんの少しの挙動だけで、今から何をするか相手が分かってしまうみたいな。

 

 

優れた武術家は相手が構えただけで、そいつが次何をやるか わかるそうですから、それと同じですよね。つまり和歌を楽しむためには聞き手の方も熟練の武術家なみの経験値が必要なわけですね。

 

 

これは「能」も同じことだと思います。能の演者はものすごく緩慢な動きをしていますが、あれは最低限の動きだけを見せることで、観客の頭の中に、現実に縛られない、想像の世界を描き出そうとしているのだと思います。

 

 

和歌も能も、作り手と受け手が同じレベルにいる時が、ものすごく面白いんだと思います。それはスポーツも同じですよね。上級者同士が一番面白いですから。

 

 

現代は楽しめるものや、とりあえず脳を回転させてくれるものがたくさんありますが、もし用意されたものに飽きてしまったら、吸収した知識によって想像力の海が広がってますので、それはそれで楽しいと思います。

 

 

平安時代も言っちゃえば大きな停滞の中にありましたからね。その中では想像力による遊びが必要不可欠なものだったのだと思います。

 

 

テイカカズラと藤原定家の話、たぶん次で終わると思います!

 

 

 

トンボとペンキの話

 

7月5日 くもりときどき晴れのち雨

本日のBGM Portishead

 

今日はトンボを色々用意してまして、陶芸でいうところのトンボというのはこの竹串とかを十字に組んだものなんですけど、これはろくろで同じ形のものをいくつも作るときに使う ものさし みたいなやつです。

 

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例えばこれ↑はちっちゃい湯呑み用のトンボなんですけど、横幅が湯呑みの直径で、真ん中から下が湯呑みの深さになります。入れてみるとこんな感じ。

 

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トンボの方がちょっと大きいのは、粘土で作った大きさから 焼き上がりまでに少し縮むからです。これで見ると ひとまわりって感じですね。焼き物はどれも ひとまわり大きく作られています。

 

 

庚申窯の粘土だとだいたい元の大きさ×1.17でトンボのサイズを作っています。2割いかないくらいですね。ところでこのトンボの真ん中の白いのは木工用ボンドでして、今日作ってたトンボのボンドがまだ乾いてない状態のものなんですけど、

 

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今まではこの真ん中を止めるのに1枚目の写真のように粘土を使っていて、粘土を割ったら再利用できるようにトンボを作っていましたが、

 

最近では、この先何度も使うことになりそうな 定番感かもしてるやつは、この↑黄色い糸で縛ってボンドで固めています。

 

 

ボンドのあまった部分を拭き取ったのが2枚目の写真のトンボになるんですけど、このボンドの容器がまたえらい汚いなと思いまして、ホコリがたまってるのかと思ったら全部スプレーやペンキの跡なのです。

 

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裏側の方がもっとカラフルに汚れてたんですけど、いろんな色を使っているということは、これは私が大学生の時に持っていた木工用ボンドになるんですね。

 

 

大学生の時、ペンキやスプレーで ベニヤ板に絵を描いていたので、その際のファミリーの一員なんでしょうけど、結構たっぷり中身入ったままですなあ兄さん、そんなにボンド兄さんの出番ってなかったのね、そして何年も半分野外みたいなとこに置いといても固まったりしないのね、

 

と木工用ボンドの有用性を再確認しました。ちなみにそのとき描いてた絵がこんなんですね↓

 

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思えば当時、ワンルームといえば聞こえのいい一部屋のみのアパルトマンに住んでいましたが、その部屋の中でペンキやスプレーで絵を描いてるもんだから、なかなかケミカルな環境にいました。

 

 

あとで絵を描く人に「油絵を描いてる部屋って臭くて体にも悪いしずっといられないよね」などと言われて、

 

「いや私はベッドのすぐ横に大量のペンキとスプレーを積み上げて、なんならベッドに座って描いたりしてるし 床にも結構飛び散ってるから、出ていくときにどうやって掃除したものか悩んでるくらいだけど全然平気ですよ」と答えましたが、

 

それはもうお前の頭がおかしくなっているんだ と言われました。もしかしたらそのおかげで脳が柔らかくなったのかもしれませんね。

 

 

ちなみに部屋を出ていくときに自力で床に飛び散ったペンキを除去しようと、これまた匂いのきつい剥がし剤を使って、すっかりきれいになるかと思ったら、フローリングのニスも溶けて、さらにその下の木目模様までなくなりました。そのとき私は

 

「ああ4年間木の床に住んでいると思っていたけど、実はこれはプリントされたものだったのだなあ」と裏切られた気持ちになりましたが、不動産屋さんが来て「余計なことすんなよ、ペンキ汚れだけだったらもっと簡単だったのに」と罵声を浴びせられ 修復費として幾ばくかの金銭を奪われ 都会は怖いなあと思いました。

 

 

 

 

雨と適当さによるバランスの話

 

7月6日 雨
本日のBGM Walter Wanderley

 

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今日は朝から雨がよく降る日でした。今も降ってますけど。

 

 

熊本では豪雨による土砂災害がまた起きてしまって大変だそうですが、雨であんなにまでなってしまうというのは なかなか予想できないですよね。

 

 

庚申窯のある福智町でも避難勧告が出ましたが、庚申窯の立地は標高高めなので水に浸かるということはないんですけど、不安要素は裏の池と裏の杉山ですよね。

 

 

もし雨が降り続いて地盤が緩んだら ちょいとやばいかもしれませんが、まあその時はその時ということで。

 

 

庚申窯のすぐ前には川があって、そこの水量が危険度のバロメーターになっているんですけど、今日見た感じでは割と普通だったのでまあ心配ないでしょうという感じです。

 

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裏手の杉山もあんまり雨が長く続いたら、流れてしまうこともあるかもしれませんが、果たして植林された杉だから土砂災害が起こりやすいのか、それとも土砂災害が起きそうなところに保水力のあるスギを植えたのか、その辺はわかりませんけど、

 

杉山というのもなかなか不憫なもので、「これから日本はどんどん材木が必要になるから」ってってどんどん杉を植えたら、杉が大きくなる頃には経済成長のおかげで外国から木材を買った方が安上がりになって、その結果いらなくなったから放置されてしまって今に至るわけで、

 

同じようなことでブルーギルとか食用ガエルとかも食料にするために輸入したら「やっぱまずいからいらね」ってなって 今では生態系を壊す悪者だと非難されております。

 

 

あるいは戦後すぐのベビーブームの時に、「このままでは人口増加で日本がパンクしてしまう」ってって人口を減らす政策方針を取って、子供を生まないようなキャンペーンをしてたら、今になって少子化が問題だと言われて、どうもその時は良かれと思ってやったことでも、のちのち問題となって返ってくるということが往々にしてあるみたいですね。

 

 

もしかしたら今の少子化対策が功を奏して、人口が増え始めた50年後には、AIや機械による仕事が増えて、「人間の労働力なんていらね」ってってまた人口問題が取り上げられたりするんじゃないかしら。

 

 

つまり良かれと思ってやったことでも、いいことばかりあるわけじゃないぞ、ということでしょうか。

 

 

焼き物を作っててもそんなところがあります。絶対にいいものに作りあげようと気負ってやったら、焼き上げで失敗したりして、ほんで適当にやってたらそれなりにうまくいったりすることもまた往々にしてあるので、

 

もう私は 形を作る段階までは気を使うけど、釉薬とか焼くとかの自然に任せる割合の大きいものは適当にやろうと思いました。適当にやってる方が自然なバランスができているみたいです。

 

 

例えば釉薬をかける時でも、同じ形で作った器に、それぞれに同じ量の釉薬を吹きつけたりすると失敗することがあります。それは器のボディと釉薬とのバランスが取れていないためですね。

 

 

同じに作ったつもりでも器によって ボディに厚みのあるもの、薄いものというようにそれぞれ差があって、厚みの差は保水量の差でもありますから、それぞれにかけられる釉薬のキャパシティは異なるんですね。

 

 

そして焼いている時の釉薬の発色も、ボディとのバランスが取れてるときにしっかり色が出るのであって、色を出すために多めに釉薬をかけたらむしろ色が悪くなったりします。

 

 

釉薬がけでいえば、釉薬の中に器を浸けて、自然に吸い込む分だけがその器にとっての適量になるんですね。それ以上を無理やり上乗せしても却って発色が悪くなります。

 

 

こちらが意図してやることというのは、その時の自分を安心させるためだけのものでして、結果として良い面と悪い面というのは どちらを選んでもそれなりに出てくるものなんでしょうね。

 

 

あんまり努力しちゃうと努力した分の見返りを求めたり、努力した量に比例してどんどん引っ込みがつかなくなるから、その価値観にすがるしかなくなったりします。まあ創作される方はその先に何かある場合もありますが、

 

日常生活で、特に「誰かのため」に何かをしてあげることというのは基本的には自己満足であって、それに対して相手に見返りを求めたりすると自分が辛くなるので、

 

自分が楽しめる範囲で適当にやってたら それなりのバランスで色々回るんじゃないでしょうか。植えない森づくりという考え方がありますが、時間はかかるけど 長い目で見ればそれが一番いいような気がします。

 

 

 

テイカカズラと藤原定家の話19

 

7月7日 雨

本日のBGM Ken Parker

 

前回 和歌というのは形を持たずに幻想だけを頭の中に作り出す装置、ということを書きましたが、生前 祖父が宝くじを買っていた時に「結果発表までの楽しみができた」などと言っていまして、今考えたらどちらも同じ仕組みのものじゃあないかと思います。

 

 

宝くじは愚か者の税金なんて言われたりしますけど、結果が発表されるまでの宝くじの券は可能性が閉じていないので、どれだけ低くても当たる可能性は秘めていますから、その可能性を懐に持っているだけで

 

「もし当たったらどうしてくれよう」というワクワクする想像や高揚感が必然的に生まれてきます。それをたった数百円の紙切れだけで楽しめるというのは、実は結構高尚な遊びなんじゃないでしょうか。

 

 

合理的な人は宝くじを買う行為を嫌いますが、何か具体的なものを獲得するということも自分の中に幻想を作り出す行為であって、どちらも行き着くところは同じような気がします。

 

 

ワクワクするために役に立つ何かを買うのか、何も役に立たないことにお金を使ってワクワクするのか、という違いなのではないかしら。

 

 

だからギャンブルはいつまでもなくならなくて、歳をとったら色も食も落ち着くけど、賭け事だけはもいつまでも面白いと言います。可能性が閉じていないことに人間の心は踊るんでしょうね。

 

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藤原定家は感性がバリバリなタイプの芸術家、というよりは理屈で創作するタイプの人だったようで、本人もそのことを自覚していたみたいです。

 

 

感性に優れているということは 創作に必要な要素ですが、実は感性のみでの創作というのは現実に縛られやすいという点もあります。

 

 

感じる力の強い人は現実に起こった出来事に対するリアクションの感情が色鮮やかなので、自分の心に映った現実を描けば、それがもうエネルギーを持つんですね。そして自分自身の感情とイメージとの距離が近い種族と言いますか。

 

 

一方理屈っぽい人はむしろ現実に縛られない空想の世界が得意だったりします。

 

 

現実ではありえない幻想的なものを構築するには、イメージと感情を切り離す必要があって、イメージのみでこねくり回す行為は理屈っぽい人の方が向いていると思いますし、理屈っぽいからこそ分裂症のような超現実的な世界に心惹かれるのかも知れません。

 

 

価値観が変化する環境にいる人は必ず何か普遍的なものを求めるようになります。それは自然とか恋愛とか運動とかの、ずっと変わらない同じ原理で動いている 人間という仕組みの原点みたいなものたちですね。

 

 

肉体的に実感できる「ずっと変わらないもの」にどこかで触れていることで、世間の価値観がグリグリ変わっても 自分の立ち位置を見失わずに済むのだと思います。だからスポーツマンはいつでも爽やかなんですなあ。

 

 

定家にとっては和歌がその普遍性を担っていたんじゃないかと思います。芸術的意欲という信仰に近い感情も心の拠り所の一つだったでしょうが、

 

定家は実に多くの和歌に触れて、それは同時に和歌を作った多くの人に触れることでもあって、どの時代でも変わらない「人間」という普遍性を 感じていたんじゃないかと思います。

 

 

そして定家が 現実にはない幻想の世界を作り出そうとしていたのは、そこに思考の原点を見つめていたからではないでしょうか。

 

 

最近ではビッグデータをAIで読み解くことによって、優れた人工知能を作ろうとしていますが、定家は生涯でいくつも和歌集を作り、その度に過去の歌を何万首も読んでは選別していて、和歌というデータを誰よりも多く集めた人生でもありました。

 

 

その定家が「和歌は心より生まれ出づるもの」という言葉を残しています。今後複合的なAIがどんどん賢くなって、人間にどんどん近づいていったときに、人間は何を拠り所にするのか、もしかしたらその「心より生まれ出づるもの」が何よりも重要になってくるかも知れません。

 

 

人間の感情はデータの集積なのか、それともデータでは代用できない別の何かなのか、理屈っぽい私はその答え合わせを楽しみにしていますが、定家の発見が一つのヒントになりそうな気がします。テイカカズラと藤原定家の話でした。

 

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テイカカズラとののちゃんのおばあちゃんの話

 

7月8日 晴れときどきくもり

本日のBGM A$AP Rocky

 

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テイカカズラと藤原定家の話、いやー長かったですね。テイカカズラについては序盤しか関係なかったですからね。

 

 

最後の方で書いた部分は一番最初に思いついたものだったので、既に内容はあったのですが、頭の中の未整理なものを なるべく整合性をつけてまとめるっていうのが大変でした。

 

 

「これもルールに縛られた行為ってやつじゃあないの」などと思いながら書いておりましたが、その途中で派生した思いつきのようなものを、せっかくなのでいくつか取り上げてみました。まあ今までのも全部思いつきですけどね。

 

 

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AIが複合的なデータを実際に扱えるようになったら、人間と見分けがつかない人工知能ができる可能性はいくらかあると思います。

 

 

そうなると私みたいな同胞愛が乏しい人間は「人工知能の方が自己増殖を含めたあらゆる面で人間より優秀だとしたら、もうバトンタッチして人類はお役御免と立ち去ればいいんじゃないかしら、

 

 

それとも人体改造が当たり前になって高性能な生き物に自らの手で進化していくのか、それとも人間にはメスを入れずに、作り出したゴーレムたちを奴隷にしてまた繁栄するのかしら」なんて想像が膨らんで、いずれにしろ楽しみにしています。

 

 

しかし一方で、人間と見分けがつかないレベルの人工知能の実現化については、実はけっこう手詰まりで、原理的に不可能っぽいというか、みんなが思い描いているような人工知能の水準には全く到達していないという学者たちの見識がありますが、こういう声は開発の機運を下げて研究費が出にくくなるのでやっぱり言わない方がいいなと思いました。

 

 

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ミロのビーナスの腕と言えば、連載漫画とかも連載してるからこそ面白いんだと思いました。先の展開に期待が膨らんで、物語の全体像を自分にとってすごいものに思い描くことができますからね。でもお話が完結してしまったら その幻想は消えてしまうのだと思います。

 

 

漫画をまとめ買いした時も、読み進めてる時はすごく面白いけど 読み終わったら急に魅力が乏しくなって なかなか読み返したりしない一方で、連載中の漫画だと、読み返してても面白いです。物語の進行具合によって過去の話も見え方が変わりますからね。だから多分今連載されているものを読むのが一番贅沢なことなんじゃないでしょうか。

 

 

しかし一方で、完結してても何度も読み返すものもあるので、それはきっと作品世界が魅力的なんだと思います。そういうのはとてもいいですね。

 

 

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和歌は想像力によって 歌に込められた情景を脳内に再現していたわけですけど、もし自分の感情をそのまま他人に伝えられるツールができたりしたら、それは和歌が目指していたゴールでもありますよね。

 

 

他の人が感動した出来事を追体験することができたら、それって他には何も要らなくなるんじゃないでしょうか。

 

 

クリエイターが創作したものは、彼らが考えていた脳内の設計図よりも劣ることが多いわけですから、作品なんか介せずに そのまま脳にダイブして、感動だけを味わうことができるみたいな。

 

 

そうするとこれまでの芸術というのは役割が変わって、個人の感情を拡張するためのオプションみたいなものになるんじゃないかしら。

 

 

これに関しては、かつて「となりの山田くん」という題名だった「ののちゃん」という4コマ漫画がありまして、朝日新聞の、それで前に見たエピソードで端的に描かれておりました。

 

 

山田家のおばあちゃんがアースノーマット的な 電気式の虫除け機についてぼやいていて、

 

「前は蚊取り線香に火をつけたら煙が出て、いかにも効いてるな〜 という感じがあったけど、これは効いてるんか効いてないんかようわからん。

 

音楽だって前はレコードやカセットという物がちゃんとあって、その物が音を出してくれてるという実感があったけど、最近ではダウンロード配信とかでみんなデータを買って喜んでいる。そんなデータ化されたもので音楽のありがたみなんかわかるものか!そのうちお前らは 『音楽を聞いたという記憶』を買うようになるだろう!! いけない!おばあちゃんが(ノーマットで)ラリってる!」

 

 

というのがありましたが私はこれがすごく大好きでして、技術が追いつけば記憶もカスタマイズするようになるんじゃないかなと。

 

 

だって自分より感受性が高い人の感動を追体験できたら、元の日常がものすごく色褪せて見えるんじゃないでしょうか。ドラッグが切れた時の虚脱症状みたいな感じで。

 

 

ちなみに4コマ漫画の内容は、随分前に見たものなので 私の脳内でかなり脚色されている可能性が高いです。

 

 

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高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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