お彼岸と華麗なスルーの話
2020.11.20
本日のBGM King James Version - I’ll Still Love You
彼岸花とはよく言ったもんで今年も彼岸の時期にバッチリ咲いていて、お彼岸ってあの世のことだと思ってたんですけど
調べてみたところ お彼岸 のもともとの言葉は パーラミター というインドの仏教用語だそうで、漢字で書くと波羅蜜多、般若心経の冒頭のやつ、で、悟りの状態になることを表す言葉だそうです。
でも元々インドで生まれた概念が中国を経て 日本に渡ってきたわけですから その時に先祖崇拝とかと結びついて 悟りの世界と死んだ人の世界(彼岸)がごっちゃになって お彼岸 ってことになったのかしら。
そもそもインドの仏教では死んだ人は生まれ変わるから 死んだ人の世界を認めてないわけで、だからと言って本家の仏教が正しいとか そういうことでもないというか
もともと そこに住む人たちの持っていた宗教観と よそからやってきたメジャー宗教は混じり合って、その土地に住む人たちに馴染みやすい形に変わって、それで同じ宗教でも ご当地ルールができて その違いをめぐって争ったりするわけですけど、
全部一緒よりもいろいろあった方がいいじゃん と思うのは私が日本人で多神教や精霊信仰に馴染んでいるから そういった発想に至るだけで、一神教だとなかなか難しい、っていうか一神教だから神様が何人もいたら困りますものね。
どれかの考えで全てを統一するよりは それぞれの違いをそのまま受け入れて華麗にスルーしあえる方がいい気がするんですけど、しかし地球も有限資源なので そんな悠長なことを言っていて無くなってしまった少数民族の文化や宗教はいくらでもあって、
滅した側がたっぷりの優越感を持って これは貴重なものだから後世に伝えていかなければならないと 保護してくれるけど、それはハントした獲物の剥製を大事に飾るようなもので、その罪悪感があるから丁寧に剥製を作るし、礼節を重んじるようになるのかもしれません。
まあこういったことも自然淘汰と言えばそれまでなんですけど、他の生物に比べて人間の想像力は大変に発達しているので、より積極的な種の拡大を目指してしまって、それを行う効率的な方法も編み出してしまえるので、やはりどこかで自制するしかないんだけど、自制ってこれまた難しいですものね。ダイエット本の多さで難しさが分かりますものね。
自制というのは生物の本能に反した行為ですから、そういう意味でいくと人間の脳は中途半端な状態で、今更もう自然の枠組みには入れないから こうなったら人間以上の存在になるしかない、ってことで悟りの境地が必要になるのかしら?
高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目
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