あがの焼窯元 庚申窯(こうしんがま)

最新情報

陶芸体験のや周辺のニュースをお伝えします。

6/11~6/17の日記

2020.06.22

コウヅルユウタです。

この日記は庚申窯のオンラインショップ

「くろつる屋」のブログを

1週間分まとめたものです。

 

 

6/11 カエルとほどよい無関心の話

6/12 テイカカズラと藤原定家の話8

6/13 17角形のお皿と65537角形の話

6/14 テイカカズラと藤原定家の話9

6/15 つばめの急成長と巣立ちの話

6/16 テイカカズラと藤原定家の話10

6/17  旅先プチブルジョワジーと旅行にはそんなに興味がないという話

 

 

まだ藤原定家の話続いていますね。自分でもこんなに長くなるとは予想外でしたな。今13を書いているので、もう少しで終わりそうです。

 

 

くろつる屋の方もよければ覗いてやってください。

こっち↓の方が確実に読みやすいですよ。

 

 

カエルとほどよい無関心の話

 

6月11日 雨

本日のBGM Harry Nilsson

 

今日は雨が降りまして、そろそろ梅雨に突入って感じでしょうか。紫陽花も次々と咲いております。

画像1

1週間前くらいからカエルがゲッコンゲッコン鳴きまくっておりまして、それも結構声が大きくて、いま現在も家の中にいながら その声を聞きつつ これを書いてるわけなんですけど、ある時あまりにでかい声で鳴くカエルがいて、

 

「こんなでかい声で鳴くようなやつだから、ちょっとした自治体で ご当地名物になるような ごんぶとガエルに違いない!」と好奇心が駆り立てられまして、声のする方へと草をかき分けて行ったら、声の主は普通よりも小さめサイズのカエルでびっくりした事がありました。

 

 

体と同じくらい喉を膨らまかすことで大きな音を出していたのですが、あの小さなサイズで あれだけの音を出せるんだったら、ちょいとビクターとかソニーとかの おっきなメーカーさんの方で、伸縮するような素材でもって むっさちっさいスピーカーとか作れないのかしら。

 

 

でも伸縮する事で音を出すとしたら、その素材を自在に操る擬似筋肉みたいなものが必要で、またそれをコントロールするための司令塔が必要になるから、これらを小型化するのはさらに大変そうだし コストもすごそうですね。

 

 

てことはカエルを調教して曲を覚えさせるとかした方が早いのかしら。「当家の歌ガエルはシューベルトから秋田音頭まで世界中の主だった曲を300曲も覚えているんざますのよ。こちらがその血統書。かわいいでしょう〜。お耳汚しになりますけど、ご紹介ついでに 『魔王』をご披露いたしますわ。」うーんステキなご趣味!

画像2

こちら↑は釉薬を洗うための水が溜まっているところで、ここには貝とかボウフラとかメダカとかがいて、水草もあるので ちょっとしたビオトープになっているんですけど、ここには毎年カエルが住みつきまして、このビオトープの食物連鎖の頂点に君臨している勝ち組カエルです。

 

 

私はカエルに対していつも「カエル先輩」という認識なのですが、おそらくですけど現在 私よりも長生きしている30年もののカエルはいませんよね?

 

 

と書いてみたところ気になったので調べてみたら、ヨーロッパヒキガエルというのが飼育下で36年生きたケースがあるそうですので、ことによると私より年上のカエルはいるかもしれませんな。

 

 

まあそれはそれとして、普段接するカエルたちは年下なんですけど、彼らってなんていいますの、かなりの無精者じゃあないですか。

 

 

あんまり新しいこととかしないし、ファッションも変わらないし、毎年の行動パターンまで同じという伝統的なライフスタイルを貫いているので、いつ見てもカエルであり、カエル以外のものになろうとか全くしないんですよね。

画像3

もし私がカエル大好き人間になったとしたら、種ごとの区別がつくようになり、個体や年齢の区別までつくようになって「おんなじカエルなんて1匹もいないんだよ!」というステキな主張をするようになるかもしれませんが、

 

私とカエルとの間には程よい無関心が満たされておりますので、20年前のカエルだろうが、先ほど写真に撮ったカエルだろうが カエルはカエル、私にとってはいつも同じカエルがそこにいます。

 

 

個別のカエルには思い入れがないので、カエルという種全体で「カエル先輩」という生き物になっているんでしょうね。だからカエル先輩は人類の誰よりも年上であるような気分なんですけど、てことは親近感のない生き物は永遠に生きていると言っても過言ではございませんよね。ね。火の鳥でもそれっぽいこと言ってましたし。

画像4

こちら↑はまた別の水場のカエルなんですけど、カエルにとってこの場所はかなり心地いいみたいで、いつも数匹のカエルが、虚空を見つめる瞳で たむろしているのですが、このカラーリングはまた見事に古びたコンクリートと同化しておるなあと感心しております。実は写真の中にカエルが6匹いるんですけどわかります?

 

 

テイカカズラと藤原定家の話8

 

6月12日 くもりときどき晴れのち雨
本日のBGM Muddy Waters

 

前回 貴族社会は現代に比べて小さく完結していると書きましたが、そのような閉じた世界の住人は、はみ出しものを嫌いますので、出る杭は打たれるといいますか、

 

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は古き慣習を積極的に革新しようとしていて、藤原定家(ふじわらのていか)は和歌の新しい表現を常に模索していましたから、他の貴族からしてみれば二人とも「出る杭」でありました。

 

 

そんな二人は和歌を理解する感性を互いに持ち合わせていて、革新を望む後鳥羽上皇は、古い形式から脱却した 新たな和歌のスタイルを築いていた定家に惚れ込みます。このことは定家の日記にも「やっぴーうれぴー大ハッピー!上皇様に褒められちったよー!」と記されています。

 

 

後鳥羽上皇は定家より18歳年下であり、コンプレックスによって古い価値観というものに疑問を持っていましたので、当時「新しいっぽいだけで何の伝統にも根ざしていない難解ぶっているだけのインテリ嫌味歌」と言われていた定家の歌を素直に評価することができたのかもしれません。

 

 

二人は和歌を通じて惹かれあい、そんな二人の初めての共同作業が「新古今和歌集」の選曲プロジェクトでした。

 

こういった「何とか和歌集」というのは朝廷の示威行為と言いますか、一種の意思表明でもありますので、後鳥羽上皇はこの新古今和歌集でも、かつて作られたものとは違う「自分ならでは」のものを作ろうとします。

 

 

この新古今和歌集の選曲には5人の歌人が任命され、その中の一人が定家でした。定家は歌の才能が認められた上に、歌人として最高峰のミッションを任されたことで心躍り、気合を入れてこのプロジェクトに取り組みました。

 

 

この当時の日記には「今日は歌を読んでいた。おわり。」みたいに書かれていて、本当に歌を読むだけで1日が終わっていったそうです。なにせ過去数百年分の記録されていた歌を読みこんで、その中から選ぶことになるので、いつまで経っても終わりが見えなかったとか。

 

 

そんな新古今和歌集のプロジェクトがスタートしたのが1201年ですが、以前から後鳥羽上皇に対して「やめちゃいなよYOU☆」と圧力をかけてきていた関白の源通親が死去。彼は政界の大物だったのですが、突然死んでしまったために引継ぎなどされておらず、権力構図にポッカリ空白ができることになりました。それが1202年。

 

 

そして1203年には鎌倉幕府の2代目将軍が伊豆に幽閉されて、12歳の源実朝が3代目となります。この2つの出来事により後鳥羽上皇は「こりゃ〜ついにワシの出番きたでおい」と政治の表舞台へと おどり出ます。

 

 

この出来事のあたりから後鳥羽上皇は名実ともに真の王になれるかもしれないと、今まで以上に「俺はすごいぞデモンストレーション」を強めていき、芸術のことだけ考えていたい定家とだんだんと衝突するようになります。

画像1

新古今和歌集の選曲にも、後鳥羽上皇はガンガン介入しだしまして、「なんか違うんだよね〜俺のイメージと。違うんだよな〜これじゃあないっていうかさ〜。こんなんじゃ古今和歌集と変わらないじゃない。新しい地平をみたいじゃない。」

 

 

と言って すでに選んでいた歌を、古い歌が多すぎる と言って除外し、代わりに現代作家の作品を多く取り入れて「現在性」を強くするよう命じました。

 

 

定家は「なに言ってやんでいこのやろう。こいつあ おれっちが毎日寝もせずに選び出した珠玉のラインナップだいっ。全部計算して組み立ててんだから、その歌を削ったらこっちの歌が生きてこない、この歌を入れたら流れがおかしくなる、そんなこともわかんねいトーシローがでしゃばって ふざけたことぬかすないっ」

 

 

と言ったかどうかはわかりませんが、何しろ相手はスポンサーなのであんまりゴネると「じゃあ君解雇」と言われておしまいなので、なるべくスポンサーの意に沿うように、しかし自分の目指す和歌のあり方を織り込みつつ、根気よくやっていましたが、

 

後鳥羽上皇は何度も介入してくるので、新古今和歌集は定家が思い描いていたものとは全く別物になりました。こういうのってハリウッド映画とかでもよく起こっていそうなことですね。定家の日記にも

 

「介入がめちゃうっとうしい。全然おもしろくない。おもしろくないよー。共同作業なんぞやってられるかい。またテコ入れはいって また作り直しで いつまでたってもおわんねーよ こんにゃろめいっ」とあります。

 



1205年に新古今和歌集は出来上がり、その収録された歌の数は過去最多で、後鳥羽上皇は完成披露パーティーを自宅で開催しましたが、選者であった定家はこのパーティーに出席しませんでした。

 

まだ後鳥羽上皇と定家の話続きます。

 

 

 

17角形のお皿と65537角形の話

 

6月13日 雨

本日のBGM Georgie Fame

 

画像1

今日は前からやってみようと思っていた、カオリンのお皿を使った時計が焼き上がりました。

 

 

このカオリンというやつは陶芸の世界では釉薬の原料の一種として扱われるんですけど、知り合いの方から「カオリンだけでも焼き物が作れるよ」と教えてもらい、カオリンは真っ白な鉱物なので白色度の高い色を生かして 最初に作ったのがこの「17」というお皿です。

17のコピー

カオリンの無垢な白さには、あまり既存のイメージが持たれていない この17角形の平皿が合うと思って作ってみたもので、何で17角形なのかというと、まず偶数は、私の中で止まるイメージがありまして、8角形とか12角形とかは落ち着いちゃっているんですよね。安定感あるというか。

 

 

一方 奇数角形は転がっていきそうなイメージで、私の中では動的な形なので、奇数角形の方が落ち着いてない分、回転するエネルギーがありそうな感じがするのと、既存のイメージが持たれていない、 っていうことはオリジナル感、っていうことは素数の方が良いだろうってことで、1以外の整数で割り切れない数である素数(2,3,5,7,11,13,17,19,23・・・)になりまして、

 

あとはミーハー心で、定規とコンパスだけで作図できる素数の多角形は今のところ5つしか見つかっていないんですけど、そのうちの一つがこの17角形だったからこのお皿の形が17角形になりました。

 

 

ちなみに定規とコンパスで作図できる素数の多角形は、3角形、5角形、17角形、257角形、65537角形が確認されているそうです。この中では17角形が一番いいなと思いまして。というかもう必然で。

 

 

いや〜257角形で既にほぼ円ですから、65537角形って円でしかないと思うんですけど、ちなみに正17角形が作図可能かどうかは18〜19世紀の大数学者ガウスが19歳の朝、起き抜けに「あ、17角形コンパスでかけるわ」と 寝ぼけ眼で思いついて、そのまま証明しちまったものだそうですが、

 

その作図ではコンパスや定規で線を引く工程を64段階踏まないといけなくて、一応私もチャレンジしましたが うまくできませんでした。1カ所よくわかんなかったのと、鉛筆の太さ分で ズレが出てくるみたいですね。

 

 

こういう「定規とコンパスによる作図が可能であることの証明」というのは実際の作図方法を思いつくことではなくて、数式での証明をすることであって、65537角形なんかは、いわゆる「理論上は可能」というやつなんですけど、

 

 

当然これを実際に作図したろかいって人がいまして、この作図方法を10年かけて調べ上げ、その計算方法をまとめた原稿が200ページを超えるという大変膨大な作業の果て、この65537角形の具体的な作図方法が人類の手に入りました。これで定規とコンパスだけで正65537角形が描けるわけですよ。17角形の作図手順が64段階なら、6万以上角形の作図手順はどれだけのものになりますやら。。

 

 

これに関して「え なんで?」とか「え ひまなの?」などとは思うだけに留めて、決して言わずにおいて欲しいと思います。数学はロマンなのです。現在ではカンピュータで簡単に製図できますが、そんなことは関係ないのです。数学はロマンなのです。そのカンピュータだって過去の偉人たちが築き上げた数学の叡智によって動いちょるのです。

 

 

大変話がそれましたが、そんなロマンティックな話の後で矮小な話題になりまして、その17角形のお皿を時計にできんかなと思って、やってみた作業工程がこちらです。

画像3

画像4

画像5

画像6

まあ作るもなにも中心に穴開けて数字書いただけなんですけどね。カオリンによる白い素地なので絵具の発色がいいのですが、私としてはちょっと気に入らない仕上がりなので、また機会があったらもっとかっこいいの作ってみたいと思います。来年くらいに。

 

 

今回のは できるかどうかだけ知りたかったので、とりあえず というやつですね。私は数式での証明よりも実際にやってみる方が性に合ってるみたいです。

 

 

 

テイカカズラと藤原定家の話9

 

6月14日 くもりときどき雨

本日のBGM Eydie Gorme and Trio Los Panchos

 

藤原定家(ふじわらのていか)と後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、残されている逸話から察するに、タイプが真逆の性格をしていたみたいです。

 

 

定家からすると、後鳥羽上皇はそれだけ芸術を見る目がありながら、なぜそれを突き詰めていかないのか、なぜそんなに他人に対して 自分をより偉大に思わせることに執着するのかわからない。

 

 

一方で後鳥羽上皇からすれば、定家は非凡な歌の才能がありながら、なぜそれをうまく使って自分の評価を上げようとしないのか、こだわりなんて犬も食わないんだから そんなもの捨てて効率よく生きていけばいいのに。

 

 

という感じで、2人は「才能」に対するスタンスが異なっていて、お互いにお互いのことを理解できなかったのではないかと思います。

 

 

後鳥羽上皇にとって才能とは手段であり、目的を達成するために欠かせない武器であるのに対し、

 

定家にとっての才能は、それ自体が目的であり、自分が才能に奉仕する生き方を選んでしまう、というところではないでしょうか。

画像1

新古今和歌集で一悶着あった後も、後鳥羽上皇は願掛けの屋敷を作るにあたって、「日本各地の名勝をふすまに描いて、その絵にふさわしい和歌をあてがってくれ」と定家にオーダーしましたが、

 

「いや、わたしはもうやりませんよ。だってすぐにそれはダメだとか、こっちに変えろとか言い出して、私が反論しようとしたら潰してきますよね。もうやりません。うんざりです。いやです。お断り。ノー。グッバイ。キャンセル。」と断るものの、

 

「いや〜定家ちゃんさ〜 悪かったよ新古今和歌集の時はさ〜 でもおれも反省してるし、もう二度とやんないから!ね!頼むよ〜定家ちゃんしかいないんだよ〜、ね!もう自由にやっていいからさ〜 口出しなんか絶対しないから!お願〜い」

 

 

それならば と定家はこのオーダーを引き受けて、結構ノリノリで絵の配置を考えたり絵師に指示したり、それにあてがう歌も自分でつくっていたのですが、

 

やはりといいますか 案の定といいますか 世の常といいますか、またもや介入が入ってきまして、定家も

 

「うおおいおまえ舌の根も乾かずにいい!」と言うもののクライアントは絶大なパワーを持っているのでやはり言いなりになるしかなく、しぶしぶ襖絵を完成させました。

 

 

この辺りにも性格の違いが出ていて、定家にとって自分の発言というものは守るべきものであり、約束をたがえることは恥であるのに対して、

 

後鳥羽上皇にとっては自分の目的を果たすためのことなので、これは嘘には当たらず、自身の中に矛盾や葛藤は起きないんですね。ていうか嘘をいいとか悪いで判断していないと思います。効果があるかどうかくらいのことじゃないかしら。

 

 

こういうことは様々な職種の制作現場とクライアントとの間で現在でもめちゃくちゃ起こっていそうな事ですが、「相手は自分とは違うルールで生きている」ということを知っておくと、そんな場面に遭遇した時の憤りもやわらぐかもしれません。

画像2

この出来事に対して少し邪推をすると、当時、定家の芸術の才能は突出していて、そのまぎれもない才能を権威の力で屈服させることによって、後鳥羽上皇は自己を保っていた面もあったのかもしれません。

 

 

貴族たちの尊厳はルールの上で成り立つものでしたが、定家の才能はそれだけで誰からも尊敬される「確かなもの」で、それをおとしめることで「おれは偉いんだ」と実感できるといいますか。

 

 

さて当時の日本は、東日本は鎌倉幕府、西日本は朝廷という2つの政権が睨み合っていた状況だったのですが、幕府側からの折衷案(せっちゅうあん:それぞれの意見を取り合わせて 良いところで折り合いをつけること)で、

 

鎌倉幕府の次期将軍に後鳥羽上皇の子供を迎えて、皇族将軍とする絵図が描かれ、一時的に東西の関係は安定します。

 

 

しかし鎌倉幕府の3代目将軍がまたもや暗殺され、このことで後鳥羽上皇は幕府を信用できなくなり、両者の緊張は急激に高まります。

 

 

後鳥羽上皇と藤原定家まだ続きます

 

 

 

 

つばめの急成長と巣立ちの話

 

6月15日 くもり

本日のBGM Yusef Lateef

 

「男子3日会わざれば刮目して見よ」とは三国志の故事成語ですが、ツバメのヒナがまさにそんな感じでして、10日くらい前のヒナがこれ↓なんですけど、

画像1

3日前くらいにはもう こんな↓になってまして、

画像2

チャーリーブラウンくらいしか生えてなかった毛も ばっしり増えて、もう巣も手狭な感じで、私が近づくと人見知りの子供みたいに固まるんですけど 体もキビキビ動いています。

 

 

毎年のことなので気づきませんでしたが、今年はこのブログに書いてたので、こんなに早く大きくなるのね、と実感しまして、そうするとヒナの期間って結構短いんですなあ。人間の子供も そんだけ早く大きくなってくれたらいいですよね。まあこんだけ急に大きくなるということは、その間親はめっちゃ飛び回って大変だったんでしょうけど。

 

 

そんで昨日の夜、ツバメが巣をかけている半分外の部屋a.k.aツバメゾーンを通ったら巣の中にヒナがいなくて、あいや!またやられてしまったあるか!?

 

 

と思って扉付近を通ったら 足元で ばたばたしだして、おお、こんなところにいたあるか、しかし何故貴様ら地面に降りてるか、巣が襲来されたか、都落ちしたか、

 

と思いましたが、せっかくの機会なので間近で撮ったろうと電気をつけてカメラを近づけたら、うまくはないけど飛んで逃げてツバメゾーンの反対側の地面にまた降りまして、

 

ああ、一応飛べるし、けっこう元気っぽいから やられたわけじゃないんだ、と ひとまず安心しました。こちら↓が逃げる前のヒナです。親ツバメに比べると顔の比率が大きくてかわいさ割り増しです。

画像3

こちら↓も同じタイミングで写真を撮ったもので、人馴れしてたし飛ぶのがうまかったから親ツバメだと思います。上↑のヒナに比べたら小顔ですね。まあ体が長いんでしょうけど。

画像4


しかし、ヒナが飛べるようになったからって巣から地面に降りるなんてことあるのかしら。その時確認したのが親ツバメ2羽とヒナ2〜3羽だったから、もしかしたら見当たらなかったヒナはハントされてたのかもしれません。

 

 

でも猫やイタチだったらもれなくジェノサイドになるだろうから 蛇のしわざかしら。蛇だったら忍び込めるかもしれないし、1羽だけで満腹になるかもしれないですからね。

 

 

まあそれはしょうがないし2〜3羽残ってるならいい方ですわいと、残りは探さず、日が明けたらどうなってるか わかるでしょう、と思い電気を消してその場を後にして寝まして、そして起きた時には親ツバメはいつもの事ながらヒナも外出していて、

 

飛行訓練に入りましたかな、と思ってたら もう今日の夕方にはツバメゾーンに一羽も帰ってこずに、どうやらみんな巣立ったみたいですね。別れはいつも突然にってやつですな。

 

 

昼間には隣のレンタル畑の上空を ツバメがびゅんびゅん飛んでたから、多分ヒナたちも飛べるようになったのだと思いますが、例年なら飛べるようになってから2〜3日は飛行訓練を行って、夜にはツバメゾーンの巣に戻ってを繰り返します。

 

 

今年は何か次の予定が詰まってて早めの出発に決めたのか、それとも昨日 やっぱり巣にプレデターがやってきてて、もう巣を見限って 飛行訓練は実地で覚えやがれ と急いで離脱したのか、わかりませんが、

 

巣立つっていうのは 祝福的な気持ちと、お別れの気持ちとがちょうどいい塩梅で、今回は即旅立ったということもあって、自然の摂理のハードボイルドな爽やかさと生きるひたむきさ みたいなものを感じられて非常に良い感じでした。

 

 

ツバメゾーンは物件として大変人気なので、ツバメ先輩は来年もやってくると思うので、その時までアディオス フェアウェル アリーベデルチ。またお会いしましょう お元気で。

 

画像6

 

 

 

 

 

テイカカズラと藤原定家の話10

 

6月16日 晴れ

本日のBGM Eartha Kitt

 

前回の続きから朝廷と鎌倉幕府について。

 

鎌倉幕府の初代将軍は源頼朝(みなもとの よりとも)ですが、頼朝はなかなか疑り深い性格だったみたいで、武功をあげた親戚とか弟とかを「あいつら優秀だし人望もあるから、俺の地位を奪うつもりなんじゃないの?いや、そうに違いない。だって俺ならそうするもん!」

 

 

と源氏一族を身内にもかかわらずバンバン殺して、そのおかげで源氏の人々は、頼朝の家だけ残してほぼ途絶えてしまい、「でも俺んちが残ってるから大丈夫!これからの源氏は全部俺の子孫になるんだ」

 

 

と思っていたのに、「1192作ろう鎌倉幕府」から10年もしない内に 頼朝は馬から落ちたことで体調を崩して死亡、と されていますが この辺がまた曖昧らしく、状況的に見て暗殺されたのでは?という説もあります。

画像1

頼朝が死んだので頼朝の息子が2代目将軍に。しかし息子は頼朝の妻の実家「北条家」の人々によって、幽閉されたのちに暗殺されてしまいます。そして3代目将軍には、頼朝の末っ子の実朝(さねとも)が就任します。それが実朝12歳の時ですね。

 

 

実朝の兄弟は既にみんな死んでいて、父が創った鎌倉幕府もすっかり北条家の人々に乗っ取られてしまっており、しかもそれは兄の仇でもある者たちに囲まれての暮らしですから、実朝の人生というのは いいとこの生まれであるのにその実態は相当にハードボイルドなものだったみたいです。

 

 

そんな環境ですから実朝は お飾りでいるしかなかったんじゃないかと思います。最初から のど元を押さえられていて、野心をもったりしたら すぐさま首が落ちる という状況で、自分が幕府のトップであるのに周りは敵ばかり というしんどいものでした。

 

 

そんな実朝が心の拠り所にしたのが和歌でした。どうしようもない絶望をうたうのが「詩」であるそうですから、実朝もまた優れた歌人であったようで、それと言うのも思春期の真っ只中にそんな状況ですから これはたっぷり酔えますよ。ええ。

 

 

悲哀とか絶望とか孤独とか陰謀とか、飾りだけの王位とか、家族の確執とか、命を狙われてるとか、殺された兄、そして父も。。?とか、思春期と相性抜群な状況や言葉がてんこ盛りですから、これはさぞ いい歌が作れたんじゃないでしょうか。悲劇の主人公、酔どれ思春期ポエットですね。

 

 

その実朝に子供がいなかったので、後鳥羽上皇の息子を後継ぎにしましょうと言う話が出て、朝廷と鎌倉幕府がちょっといい感じになってたところに、実朝が暗殺されてしまいまして、後鳥羽上皇は

 

「むりむりむりむり、そんなところに子供をやれるかいや!もうお宅とはつき合いやめさせてもらいます!」と幕府を全く信用できなくなり、幕府と朝廷の関係は再び悪化してしまった と言う事なんですね。

画像2

この実朝が暗殺された事で源氏一族は途絶えてしまい、鎌倉幕府は北条家のものとなりました。鎌倉幕府で源氏が生きて 実権を持っていた時間は30年にも満たず、儚いものでした。

 

 

頼朝の疑心暗鬼のせいで自らの首をしめたのが原因 とも言えますが、平家だけでなく源氏もまた「おごれるものは久しからず」を体現することになったわけですね。

 

 

さて藤原定家(ふじわらの ていか)は手紙のやり取りという通信教育で、実朝に和歌を教えていて、実朝の歌の才能にも感心しており、宮廷文化を東の地に広めようとする彼の態度も こころよく思っていました。

 

 

その実朝が暗殺されたという報せを受けた定家は、後鳥羽上皇の歌会で、実朝追悼の歌を詠んで、それがまた死を連想させる縁起の悪い内容でもあったので「お前なんか2度と会うもんかー」と後鳥羽上皇を大変怒らせます。

 

 

定家が実朝と親しくしてるのも前々から気に入っていなかったでしょうからね。もしかしたらそのことを、「定家が幕府に鞍替えしようとしてる」というふうに捉えて、自分の威光の陰りのように感じてしまっていたから かもしれません。

 

 

藤原定家また続きます

 

 

 

 

旅先プチブルジョワジーと旅行にはそんなに興味がないという話

 

6月17日 晴れのちくもり

本日のBGM Mac Ayres

 

今日は祖母からの依頼で、そろそろ木から落ち始めてる山桃↓をキャッチするための網を張りに裏庭に行きました。

画像1

裏庭に行く前には まず虫除けスプレーをボデーに散布。ローズゼラニウムなどのハーブを煮たりしてオーガニックな虫除けを作ったこともありましたが、買った方が安上がりアンド効果抜群ということで、近年は文明の利器に頼りまくっています。でもローズゼラニウムとか香りがいいし、子供なんかにも安心なので、そういう作業が嫌いじゃない人にはおすすめですね。

画像2

ほんでこのふわふわしたゾウさん印のズボンなんですけど、ふわふわした服の方が歩くたびにこう風がパタパタ送られて涼しいし、布と肌の間に空間があることで布越しで蚊に刺されることが減るので夏場はだいたいこんなん着てますね。

 


このズボンはインドで買ったもので、インドに行くと物価の違いから 私は小ブルジョワジーに転身して、資本主義の豚のごとく散財するんですが(1日2,000円くらい)、

 

それでもすぐに現地の価格に慣れて「これで500円はちょっとね〜」とかって買い控えて日本に帰ったら、同じようなのが2,000円以上したり、そもそも売ってなかったりするので、このズボンもケチらんと10着くらい買ったらよかったなーと思っているんですけど、

 

「まあまた行った時に買う楽しみもあるじゃあないか」 とも言えますが、私がインドくんだりまで行った理由は、インドに友人がいたからであって、そいつが来年には日本に帰ってきやがるそうで、そうなるとインドに行くことはおそらく2度とない気がしまして、やっぱり10着くらい買えばよかったと思うのです。

 

 

私は旅行自体にそれほど興味がない人間なので、誰か知り合いが現地にいてくれないと海外は めんどくさくて行きたくないんですけど、

 

この間 海外在住の友人その2とオンライン飲み会で話したら、これがまた人に会うという機能は十分に果たしてくれまして、その結果「友人に会うため」というモチベーションが9割がた霧散しまして、そうなると本当に海外に行く理由がなくなってきてるような感じの今です。

 

 

もーこれは映像情報文化の弊害ですよ。たぶんですけど美しい景色というのは何日もかけてヒーコラ言いながら ようやっと辿り着いて、道中あれやこれやのトラブル、同行者や現地人との罵詈雑言合戦を経て、脳内から心身の疲れを癒す お汁がいっぱい出てる状態の時に、初めて見る景色だからこそ実際の風景よりも素晴らしいものに感じられるのだと思いますが、

 

例えば日本で普通に暮らしてたら、世界の絶景なんてのはもう何十回も目にしてるわけで、そうなると実際に現地についても「あ写真とおんなじね〜」とか「今日天気悪いな〜このパンフレットみたいな写真が撮りたいのに、ちょっと晴れるまで待とか」とかなってしまいますよね。少なくとも私はそうなってるんですけど。

 

 

「じゃあ見ないで行けばいいじゃん」とおっしゃるかもしれませんが、見ようと思ったら見れるものを 意図して見ないようにして っていうのは、なんかちょっと気持ち悪いじゃないですか。

 

 

こういうのなんて言いますの、ハスラー2で例えるなら、ビリヤードがうますぎて誰も勝負してくれないから、どんどんハンデをつけて、賭けの条件も譲歩して相手をしてもらう時のトムクルーズみたいな感じ。

 

 

つまりそれって 自分にルールを課してレベルを合わせてから遊んでるということで、 それでは本当の喜びは手に入らないような気がしまして、そうじゃなくて全力でぶつかりたいじゃあないですか。がっぷり4つ組みたいじゃあないですか。

 

 

てことは旅行で全力を出すには誰も行ったことのない場所に行くしかないんですけど、そんなところ もうないですよね。

 

 

有名な写真家の人が「まだ地球の4割は未発見だ」的なことを言ってた気がしますが、それは一般人がおいそれとは行けないアマゾンの奥地とかマグマの吹き出てる危険地帯とかそういうところの事ですよね?

 

 

でもそんな場所って カメラが初潜入!とかって番組になって「あらーすごいわねー」ってお茶の間で擬似体験できちゃうから、やっぱりもう地表にフロンティアは残っていないような。

 

 

フロンティアはたぶん 今後技術発展することで、新たに電脳世界的な感じで創造されるかもしれないけど、肉体的な冒険はもうほとんどなくなってて、それで私は旅行にあんまり興味を持てないんだと思いました。

 

 

などと旅行にあんまり行く気力のない理由を思いつくまま書いてみましたが、書き終わって思うのは、たぶんこの縛りプレイが今後はどんどん重要になってくるんじゃないかということです。

 

 

「見立て」の文化に近いと思うのですが、現地のことを調べて、自分の中で物語を作って、その場所を自分なりの聖地にすることで楽しく旅行ができるような気がします。

 

 

つまりもう 「ただの風景だけ」で感動できた時期は終わって、その場所を想像の力によって、実際とは異なる特別な場所に見立てるという文化が必要な時期になってきたんでしょうね。

 

 

そう思うと旅行したくなってきましたな。でも見立てで事が済むなら、庭に砂山作って「はいキリマンジャロ」とかやっててもいいわけですからね。これは大変文化レベルが高いですよ〜。そして全く話がずれましたけど、山桃キャッチの網はこんな感じに取り付けました。

画像3

おれ

高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目

 

 

 

Pocket
LINEで送る